平成の中期以降、レガシーという言葉の解釈に幅が出てきた。「遺産」ではなく「後世まで評価されるべきモノ」に敬意を表して使う場合が増えた。キャンプも終盤、球界のレガシーを考証する。

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沖縄でプロ野球のキャンプが始まって40周年。今や、韓国球団も含め16チームが、県内18球場で開幕に向けた準備を整える。先陣を切ったのは、日本ハムだった。

1979年(昭54)に投手陣だけの春季キャンプを名護市営球場で行ったのが始まりだ。77年に沖縄の本土復帰5周年を記念して、後楽園球場で「沖縄デー」を開催したことがきっかけだった。当時、球団の取締役管理部長としてキャンプ地選定に奔走した小嶋武士(76)が懐かしむ。

小嶋 それまで徳島・鳴門でキャンプをしていたが、朝夕には雪が降るので、投手陣はドラム缶に火をたいて、手を温めながら投げていた。私は業務提携していた米大リーグ、ヤンキースに留学経験があって、選手は暖かいところで調整するのが一番だと実感していたんです。

海水浴のオフシーズンを埋める、新しい観光産業を模索していた沖縄県観光協会の誘いに飛びついた。

最初に訪れた那覇市内の奥武山球場は、外野後方に幹線道路が走る。「サモアの怪人」ことトニー・ソレイタがいた時代。「道路が近すぎて危険すぎる」と断念した。続いて宜野湾、コザと巡り「沖縄で最も風が弱く、治安が安定していた」という名護に決めた。実験的に投手陣のキャンプを張ると、その年の調整は驚くほど順調だった。

笑い話には事欠かない。

小嶋 当時は高速道路もなく凸凹道。初めて那覇から名護へ行った時、途中で車のタイヤが2度もパンクしてね。20分くらいで着くと思っていたのに、3~4時間はかかった。

この地方で「名護の七曲がり」と呼ばれた悪路だ。名護から許田間の約8キロ、海岸沿いの屈曲した道は、数え方によって「50曲がり」とも言われるほどカーブが多い難所だった。

宿舎のホテルは、訪れた一行を驚かせた。現在、アマスカウト顧問を務める山田正雄(74)は「『ホテルオークラ』っていう名前でね。一流ホテルに泊まれると喜んで行ったら、普通の個人営業のホテルなんだよ」と大笑いする。今では沖縄北部観光の拠点となっている名護も、この頃のホテルは数軒だけだった。

81年に1軍全体のキャンプをスタートすると、今度は練習相手不足に悩んだ。米軍嘉手納基地の野球チームとオープン戦を行った逸話もある。

小嶋 相手の司令官から話があってね。うちはプロ。アマチュアとはできないと言ったら「第7艦隊にはハワイも含まれていて、そちらに2Aや3Aの選手がいる。そういう選手を集めて対戦します」と。「ファントム(戦闘機)で連れていきます」って冗談を言っていた。試合はとても盛り上がりました。

全体キャンプ開始の81年には、東映時代以来、19年ぶりのリーグ制覇を果たした。サンゴ砂の美しい浜に面した77年開場の名護球場は今年12月、大規模な改修工事を終えて生まれ変わる。新たな時代が、始まる。(敬称略)【中島宙恵】

1月31日、建設中の名護市民球場
1月31日、建設中の名護市民球場