のるか、そるか。斬るか、斬られるか-剣豪の居合とも違う、野武士の泥臭い闘いが平成初期には残っていた。

1994年(平6)5月11日。神宮でのヤクルト-巨人戦は、まさにケンカだった。2回表、ヤクルト先発西村龍次が、巨人村田真一の頭部へ死球を当てた。怒りに満ちた表情の村田は、立ち上がるやいなや2、3歩マウンドへ向かいかけた。だが、脳振とうで卒倒した。

騒然とした球場内の空気が、一瞬にして凍り付いた。これだけでは終わらない。3回裏には、巨人先発の木田優夫が西村の左腰に当て、緊迫感はピークに達した。

極めつきは7回表。西村がダン・グラッデンの胸元へ際どいシュートを投げた瞬間、ゴングが鳴った。ヘルメットをたたきつけたグラッデンと、捕手の中西親志が取っ組み合いを開始すると、両軍ベンチが空っぽになった。誰が殴り、誰が抑止したのかさえ不明なほど、全員でケンカしていた。後日のセ・リーグ理事会で、故意死球を新たな規約として制定することにつながる試合だった。

伏線は93年にあった。ヤクルト高津臣吾の死球で、巨人大久保博元が左手首を骨折。その後、巨人宮本和知がヤクルト古田敦也に死球を当て返した。その際の乱闘で、巨人の投手コーチだった堀内恒夫のメガネが異様に変形するほど、両軍のもみ合いはぐちゃぐちゃだった。

当時巨人のヘッドコーチを務めた須藤豊(81=野球評論家)は、遺恨があったことを否定しない。ただ、野村ヤクルトへの敵対心は、宿敵として認めた裏返しだった。「巨人を批判し過ぎる。長嶋監督をボロクソに言う。しかも、ヤクルトは強かった」。報復は暗黙の了解だった。

須藤は「両軍とも(死球禍は)予期していたはず」と言う。事の是非をよそに、当時の担当記者も「乱闘=1面」を覚悟していた。前近代的な練習から科学トレーニングに移行していた時代。一方で、敵を蹴落とすために、闘争心をむき出しにする時代でもあった。そんな熱さにファンは酔いしれた。須藤は言う。「昭和末期の野球。勝利への執念が強く、昭和のにおいがする選手が多かった。その表れだと思う。死球合戦より、間一髪のプレーにどれだけ能力を出し切れるか。そこをファンは見てくれていたんじゃないかな」。

死球合戦を是とするわけではない。それでも球場は常に満員。必死に闘った結果だった。野武士のような、泥臭い「斬り合い」は新時代にどんな形で受け継がれていくのだろうか。(敬称略)【四竈衛】