平成元年の1989年10月11日に生を受け、令和の節目に先頭をひた走る野球人が巨人菅野智之投手(29)だ。昨年9月から続いた大型連載「野球の国から」平成野球史編の最終回で、過去、現在、未来をじっくりと語った。【聞き手=久保賢吾】

巨人菅野
巨人菅野

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-転機は

菅野 「プロになれる」と疑ってはいなかったですけど…実際、分からないじゃないですか。大学に入って、2年の時にジャパン(日米大学選手権)に入って、自分が思っている以上の力を出せました。その時「もしかしたらプロで活躍できるかもしれない」と思いました。その後(現広島の)長野さんとかとアジア選手権に出場して、社会人の方から「すげぇな」と言っていただいて。「行けるかもしれない」の確信に変わりました。

-東海大相模の1年時はメンバー外だった

菅野 「あ~、やっぱりすごいなぁ」と。全然違いましたからね。入る場所を間違えたなと思いましたよ、正直。広輔(広島田中広)は1年春から入ってましたけど、僕は高校2年まで試合なんか、投げたことなかったですから。2年生の春のセンバツが終わるまでは、練習試合で投げたのも2試合くらい。もちろん、2軍戦でした。1軍戦に投げたことは、1回もなかったです。

07年7月、東海大相模・菅野(右)は準優勝の表彰を受け取る。後方は田中
07年7月、東海大相模・菅野(右)は準優勝の表彰を受け取る。後方は田中

-1軍戦初登板は?

菅野 センバツの後、初めて投げさせてもらって、その後メンバーにも入って。先発したのが春の関東大会の準決勝で、相手はヤクルトにドラフト1位で入った増渕さんの鷲宮高校。ボッコボコに打たれて、監督から「もう使わない」と言われました。夏の大会もメンバーを外れて、最後の選考でメンバー入り。背番号は15でした。だから、広輔なんかはわかってるんです。僕が入った時のことを知ってますから。あいつはいつも言いますよ。「お前がここまでになるとは思わなかった」って(笑い)。

-差はどう埋めた

菅野 死ぬほど練習した自負はあります。球数とか、そういうのではなくて、野球のことをずっと考えて生活してました。常に野球が頭にありましたね。雑誌とかも見たりしましたけど、ずっと野球と向き合っていました。

-挫折は

菅野 いっぱいありますよ。挫折だらけです。キリがないです。ただ、大学時代はそんなになかったかもしれないです。挫折って、1つはケガですよね。ケガというのは大きな挫折っていう感覚になります。プロ2年目の肘。あれも挫折ですし、高校に入った時は肩を痛めました。大学の時はケガをしなかったですね。体重を増やしたり、体を強くしました。

平成20年、東海大1年時の菅野
平成20年、東海大1年時の菅野

-日本ハム中田、ロッテ唐川、楽天由規。高校時代の「BIG3」の存在は

菅野 高校の時は全然、負けてたと思います。憧れのすごい雲の上のような存在。「あっ、こういうやつがプロに行くんだな」と。高校の時は勝てない、かなわないと思ってました。

-高3の時、唐川との投げ合いは遜色なかった(07年6月30日、成田との練習試合で19奪三振)

菅野 僕はそうは思わなかったです。でも、今でもそういう感覚でいるから、今の立ち位置でいられてるのかなと。やっぱり、どんなに成績を出しても、自分のことをすごいとは思わない。てんぐになるっていうのが、僕は信じられない。そういう気持ちが自分を支えている。唯一の支えですね。満足した時は、僕が終わりの時だと思います。

平成19年、東海大相模3年時の菅野
平成19年、東海大相模3年時の菅野

-求める地点とは

菅野 それが見えたら、もう終わり。見えないから、やるんです。どこまで行けるんだろうと。見えないですもん。見えたとしても、そこに近づいたとしたら、もっと先に目標がいっちゃいます。例えば、1年目の時に沢村賞とか、最多勝とか、いろんなものを目標として、設定できないですよね。でも、それを現実につかみ取れました。でも、それができたからって、頂にいるわけではないと思うんです。上には上があります。だから、頑張れるんです。新しい元号になりますけど、僕はもっともっと上に行きたいですし、常に追い求めていきたいです。