全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える18年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫るシリーズ2「監督」の第8弾は、東北、仙台育英(ともに宮城)率い、全国的な強豪に育て上げた竹田利秋氏(77=国学院大総監督)です。

 春夏合わせて27度の甲子園出場で、勝ち星は30の大台に乗せた名将の物語を、全5回でお送りします。


 2月7日から11日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。


 「勿忘(わすれな)荘」が灰じんに帰した。

 1983年(昭58)8月1日午後6時20分頃、東北高野球部寮「勿忘荘」の1階調理場付近から火の手が上がり、木造2階建ての同寮480平方メートルを全焼した。けが人こそいなかったが寮生36人が焼け出された。練習中だった監督、選手は消防車のサイレンに急きょ駆け付けたが、何もできず立ち尽くすだけだった。

 当時、僕は日刊スポーツ新聞社の新入社員。ちょうど、同日付で仙台市にある同社東北支社(現総局)に赴任したばかりだった。火事現場での取材が初仕事となった。

 当時東北監督だった竹田氏と初めて言葉を交わしたのも、燃えさしがくすぶるその場所で。「全焼したんですね?」と確認しようとすると、同監督はポツリと言った。

 「こっちのゼンショウはいかんなあ…」

 一瞬、何のことかわからず聞き直そうとしたが、すぐにゼンショウは「全焼」と引っかけた「全勝」の意だとわかった。このときの同監督の印象として<1>さすが勝負師らしい言葉が常に頭にある<2>こんな大変な状況でもシャレを言う余裕がある、という2通りの感想をもったが、それ以降、同監督と話す機会が増えたとき、<2>が監督の指導と深くからんでいるように思うようになった。

 竹田氏が東北の監督に就任した当時。野球後発地区だった宮城県を含む東北地区の球児たちの「劣等感」は、西日本のチームの元気良さとは対局にあった。今でこそ野球レベルの「南北格差」はなくなったが、そのころはまだ「北低南高」の落差が存在していた。

 「北国の選手は端的に言うとすごく一生懸命練習するんだけど、思い切り表現しない。思いはあるんだけど、それを口に出さない。それを引っ張り出せば、西日本のチームに引けをとらないチームになるんじゃないか」。そうにらんだ竹田監督はチーム改革として、「言いたいことは言葉にする」「笑っていいところは笑う」と、練習にメリハリをつけさせた。会話にダジャレや笑いを入れれば、会話の接ぎ穂になるし、自らも次の1歩を踏み出しやすくなる-。

 どこより早く練習にヨガやジャズダンスを取り入れ、関東遠征では、チャーターのバス移動ではなく、満員電車に選手を乗せ、度胸をつけさせるなど、アイデア監督でもあった。

 再び、先の火事現場。竹田氏はこう続けた。「燃えた物の中には甲子園に出場したときの記念品がいっぱい含まれていたんです。それが燃えてしまったことが一番悔しいし、悲しいですね」。振り絞った「こっちのゼンショウ…」は、悲しいけど悲しんでばかりいられない。また新たな記念品をさがしに甲子園を目指そう! 次の1歩へ踏み出すための掛け言葉だった。【玉置肇】