1958年(昭33)は野球界の潮目が変わった年だった。東京のシンボルとして地上333メートルの東京タワーが完成するなど、日本経済の右肩上がりとともに、野球が国民的スポーツとして認められていく。

 プロ野球はゴールデンボーイと称された長嶋茂雄(巨人)が、金田正一(国鉄)に4打席4三振を喫したデビューから沸きに沸いた。パ・リーグは三原脩率いる西鉄が黄金期を迎えていた。日本シリーズは西鉄の3連敗からの4連勝による逆転日本一で幕を閉じた。

 高校野球では前年57年の第39回となった夏の甲子園で王貞治(早実)が寝屋川を相手にノーヒットノーラン。ただ、第40回大会の区切りとなった58年夏は出場を逃している。その夏に聖地で驚異的なピッチングをやってのけたのが徳島商3年でエースの板東だ。8月16日の準々決勝の魚津戦は、村椿輝雄と延長18回の末、0-0の壮絶な投げ合いになった。

 板東 僕らは格好悪いから1回戦だけは勝とうと言い合ってきたんです。それが準々決勝まできた。もちろん優勝なんてまったく思ってなかったです。うちは常々先攻をとる。板東は絶対0点に抑えんといかんかったし、先に点をとったら勝てたからです。でも軟投派の村椿君を打てんかったんです。ほんまきゃしゃな体をしてノラリクラリと投げるんですわ。

 板東は初戦(2回戦)の秋田商戦で17三振を奪って1安打完封勝ちを収めていた。続く八女戦でも4安打に抑えて15奪三振。この後、魚津戦を迎えるわけだが、板東の名は試合を追うごとに知れ渡っていった。

 板東 僕の投球フォームを分解した写真が朝日新聞に掲載されたり、なんでか宿舎に記者やカメラマンが詰めかけました。こんなこと田舎の徳島ではいっぺんもなかったこと。すっかりテングになりましたわ。

 魚津と対戦した徳島商に得点機がなかったわけではない。1回表2死二塁から4番板東が左前打を放ったが、二塁走者の富田美弘がホームでタッチアウトになった。7回表にも2死満塁の好機を迎えたが、7番大坂雅彦がカーブに三振。板東と村椿の投げ合いが続いていく。

 板東 うちはほんと打たないんです。空振りばっかりで…。ただ僕は1試合15個以上の三振をとらんと、監督の須本さんから怒られてましたから。練習試合でもそうです。ヒット何本で抑えたとかじゃなかった。なんの基準か今でもわからんですけど、とにかく15個三振とらんと罰走なんですから。僕の恐怖はランニングだったんですよ。

 明大出身で当時の徳島商監督だった須本憲一は、地獄の猛練習をするタイプの指導者だった。エース板東は1日1000球のピッチングを課されたという。その当時を女房役が振り返った。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年5月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)