早実との決勝戦。愛甲は、初回の先頭打者に中前打を浴びた。

 愛甲 前日から肩が重くて上がらなかった。当日のブルペンでも良くなかったし、いきなり打たれて「今日はダメかな」と思った。

 初回に連打と送りバント、そしてスクイズで1点を失った。だが、打線が援護する。その裏に早実の1年生エース、荒木大輔を攻めた。4番片平保彦の適時打で同点にした。荒木の連続無失点を44回2/3で止める一打だった。失点に動揺したのか、荒木にボークが出て勝ち越し点を奪った。2回に1点、3回にも2点を奪って5-1。荒木をマウンドから降ろした。

 それでも愛甲はピリッとしない。4回に二塁打を含む3安打を浴びて2失点。続く5回には3連打を浴びて1点を失い、ついに1点差に迫られた。

 その直後、5回裏の攻撃中だった。ベンチの愛甲は、ふとブルペンを見た。川戸浩が投げていた。同級生の同じ左腕投手だった。

 愛甲 川戸がメチャクチャいいボールを放っていた。その時思った。今のオレより川戸の方が上だなって。本当は最後までマウンドに立ちたいと思うべきなんだろうけど。春に監督にいろいろ言われたこともあったしね。川戸が投げた方が勝てると思って、監督に「交代させてください」と言った。

 「春」とは、春季神奈川大会の決勝戦を指す。東海大相模にサヨナラ負けを喫し、愛甲はグラブをたたきつけた。監督の渡辺元に叱られ、自分の行動がチームに大きな影響を及ぼすと理解した。チームワークについて考える契機になった。

 甲子園の決勝で、愛甲は仲間を頼る道を選んだ。孤独で、負けず嫌いで、ワンマンだった男が、マウンドを降りようと決めた。勝つために。仲間と日本一になるために。

 渡辺も継投を決めた。先発こそ重圧に強い愛甲に託したが、川戸の方が状態がいいと分かっていた。

 渡辺 愛甲と心中…という気持ちもありました。愛甲で負けても周りから批判も何もない。ただ、私は「何としても勝ちたい」と思った。大会前に優勝宣言をし、目標を持って甲子園に来ていた。目標があったから決断できた。「交代」という言葉が口から出た。決して思いつきではない。愛甲と私の思いが一致したからこその継投です。

 渡辺はチームリーダーの安西健二をブルペンへ走らせた。

 安西 監督から言われた通り「次の回からいくぞ」と伝えたら、川戸は驚いていた。顔がこわばってね。でも、オレは驚かなかった。大事な場面でエース…超高校級の大エースが降板するのに不安はなかった。川戸なら絶対に抑えてくれると思った。

 川戸は1回戦の高松商戦で1/3回を、2回戦の江戸川学園戦で2回をリリーフで投げていた。3回戦以降は出番がなかった。

 川戸 そりゃビックリしましたよ。投げるなんて思ってない。甲子園では1度登板できればいいと思っていて、1、2回戦で投げて満足していた。決勝戦は一番気楽でしたから。でも、4回かな、監督に「ブルペンに行け」と言われた。ちょっと投げてベンチに戻ったら「もう少し投げておけ」と。そしたら後輩の吉岡(浩幸)がブルペンに来て「次の回から行くと言ってます」って…えっ、ブルペンに来たの安西だった? 吉岡じゃなかったかな? 

 当時の報道には、川戸が継投時に「点を取られちゃうかもしれないぞ」と不安そうに言い、愛甲が「任せておけ、打ってやる」と答えたとある。

 川戸 まったく覚えてない。マウンドで足が地についていないって、自分で分かりましたから。

 6回表。先頭打者にいきなり左前打を許した。同点の走者だった。(つづく=敬称略)

【飯島智則】

(2017年5月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)