後の快挙も、どうなっていたか分からない日があった。14歳だった福嶋はその時「不思議だな」と思った。1945年(昭20)8月9日。夏の暑い日の朝だった。

 福嶋 朝8時ごろだったかな。警戒警報が鳴ったので、みんな防空壕(ごう)に入ったんです。いつもだったらそれから空襲警報に変わるという流れでしたが、それが変わらなかったんです。

 学制改革以前の小倉中2年生のときだった。

 その後、ラジオから「敵機が北九州上空を通過したが爆弾が落ちることはなかった」ことを聞き、しばらくして「不明爆弾が長崎に落ちた」とラジオが報じたことを知った。広島に次ぐ、長崎への米軍による原子爆弾投下のことだった。

 福嶋 広島と同じで、まったくどんな爆弾か分からないから「不明」と伝えられたんですよね。あとから北九州に落ちた可能性があったと聞いて、長崎の人には申し訳ありませんが、身代わりになっていただいたような気持ちになりました。

 福嶋が住む北九州市には当時日本が誇る八幡製鉄所、造船所があった。米軍のターゲットになる可能性は十分にあった。

 もし、があるとするなら、現在の福嶋は存在しなかったかもしれない。そうであれば、47、48年と夏の甲子園連覇を果たす原動力となった投球も存在しなかったといえる。いつも生と死が隣り合わせ。そんな時代を生き抜いてきた。

 41年夏の第27回大会が中止となり、夏の甲子園は5年間開催されなかった。48年夏に福嶋が肩を並べた大会全5試合連続完封勝利を最初に達成した海草中出身の嶋清一は45年、太平洋戦争のためベトナム沖で帰らぬ人となった。生死のはざまを精いっぱい生きて、大好きな野球に向き合った福嶋の言葉は重い。

 福嶋 大会が開かれなかったときの先輩たちの悔しい思いに後になって触れることがあった。野球を思いっきり楽しめることができる今は幸せです。球児にはそのことを感じてほしいですし、感謝の気持ちを忘れないでほしい。

 終戦からほどなくのこと。進駐軍から武器回収の指令が出て、学校内を探していたところ、ボールとバットが校内から出てきたことがあったという。もちろん、わずかばかりの数だったが。それも、戦争に向かわねばならなかった先輩が、隠してくれていたのかもしれない。

 福嶋 今のような平和な時代で好きなスポーツができる喜びをかみしめてもらいたい。すべてに感謝してグラウンドに立ってほしい。

 そうおだやかに語りかけた福嶋。目尻にできた優しいシワが、幸せな時代を物語っていた。(敬称略=おわり)

【浦田由紀夫】

(2017年6月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)