76年夏、銚子商の2年生だった斉藤俊之は、父で監督の一之と甲子園に出場し、「親子鷹」で注目を浴びた。銚子商、入学後から俊之にとって、一之は「おやじ」から「監督」に変わったが、2人が描いた夢は全国制覇。苦悩しながらも、同じ夢を追った幸せな3年間だった。

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 中3の冬、俊之は「親子鷹」から逃げ、ライバル校の監督と選手で対峙(たいじ)すると決心した。高校の願書を提出する前夜、俊之は父一之に「市立銚子に行く」と告げた。「野球はやるのか?」と聞く父に、「やるよ」と答えた。「何でうちでやらないんだ?」と聞かれ、「一緒にやりたくないんだ」と言った。

 俊之 小さい時から、父の大変さを見てきましたから。それに周りからはずっと、「斉藤の息子だよ」と言われた。それが嫌で嫌で仕方なかった。

 父の顔はほとんど見られなかったが、俊之には寂しそうに映った。一晩、考える時間を与えられた。寝床に入ったが、2つの思いが交錯し続けた。「銚子商業で野球がやりたいな…。でも、つらいだろうな」。一睡もできず、決断の朝を迎えた。

 父の前で俊之は手に持った願書を破った。「銚子商業でお世話になりたいです」と頭を下げた。「男が1日で決めたことをくつがえすな」と叱られ、「3年間は親子じゃないから」と言われたが、俊之は「覚悟はしてます」と言った。ふと見た父の目は潤んでいるように見えた。

 俊之 おやじの寂しそうな顔が頭から離れなくて…。それに「お前を選手として期待してたのに」と言われたのもうれしかった。やっぱり、銚子商業は幼い時からの憧れでしたから。

 覚悟を決めたはずだったが、苦しみは想像以上だった。父一之は「黒潮打線」を築き、甲子園優勝に導いた地元の英雄。幼い頃から、「監督の息子」の枕ことばが嫌だったが、重圧は相当だった。2年春にレギュラーを獲得したが、周囲の目は「息子だから」。チームメートは普通に接してくれたが、過剰に意識する自分の心とも闘った。

 周囲を納得させるには、結果が求められた。2年春の練習試合、同じく「親子鷹」だった東海大相模(神奈川)の原辰徳(元巨人)と対戦。原が左中間にライナーで運べば、俊之も右翼に本塁打を放った。翌朝の新聞には、「親子鷹 競演」の見出しが躍った。

 俊之 原さんはスーパースターで、自分はやっとレギュラーを取った選手。それでも、「親子鷹」と注目され、少し変わった。

 歴史的な一戦での1発で雑音に終止符を打った。2年夏の県大会、準決勝の習志野戦。甲子園優勝校同士の好カードに、スタンドが人であふれ返る中、同点の延長10回にサヨナラ弾。「やっと、銚子商業の一員になれた」。決勝戦も制し、甲子園出場を決め、全国でも8強入りした。

 3年時には、チームメートの指名で主将を任された。監督の一之からは「何かあれば主将の責任。お前のせいだと怒られ続けた」。秋の大会では打率5割以上、2本塁打で打線をけん引し、センバツに出場。2季連続で「親子鷹」で聖地に立った。

 卒業式の夜、俊之は父一之に誘われ、食事に出掛けた。「3年間、よく頑張ったな」。監督であり、父だった一之から掛けられた初めての褒め言葉だった。「大変だったか?」と尋ねる父に、俊之は「大変だったけど、一緒にやれて良かった」と感謝した。

 甲子園に11度出場した父一之は、89年に60歳でこの世を去った。12年後の01年6月、俊之は母校の監督に就任した。食品会社で働き、高2の娘と小5の息子を持つ2児の父親だったが、低迷する野球部の復活を託された。運命に引き寄せられたかのように、その5年後、「親子鷹」は第2章を迎える。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

 ◆千葉の夏甲子園 通算94勝73敗。優勝3回、凖V3回。最多出場=銚子商12回。

 ◆斉藤一之(さいとう・かずゆき)62年に銚子商の監督に就任し、甲子園に11度出場(通算23勝)した。「黒潮打線」で74年夏に全国制覇。教え子には木樽正明(元ロッテ)、篠塚和典(元巨人=日刊スポーツ評論家)、宇野勝(元中日)ら。89年1月に60歳で死去。

76年8月、夏の甲子園の高松商戦で打席に立つ銚子商・斉藤俊之
76年8月、夏の甲子園の高松商戦で打席に立つ銚子商・斉藤俊之
斉藤俊之氏
斉藤俊之氏