その日は旗すらなびかない日本晴れだった。1956年(昭31)7月31日、足利工(栃木)は、絶体絶命のピンチに追い詰められていた。甲子園出場をかけた北関東大会決勝、藤岡(群馬)との試合は、1-1のまま延長15回裏、2死満塁となっていた。

 だが、そんな状況でもナインは「負けるはずがない」と思っていた。この夏4度目の延長戦には自信があった。「延長戦になったら勝てる」が合言葉だった。次の瞬間、エース池田五郎の投げたカーブがミートされる。強烈なゴロが投手の足元を抜けた。小川晃二塁手が横っ跳び。グラブに当てて中前にはじいた。その間に、三塁走者が小躍りしながらホームを踏んだ。

 三塁側、藤岡の応援席からは、甲子園初出場を祝う紙テープが投げ込まれ、大騒ぎとなった。サヨナラ勝ちでの甲子園行きに、興奮のるつぼと化した。だが、試合は終わってなかった。はじいたボールに追いついた小川はひざをつきながら二塁に送球。ベースカバーに入った大橋弘遊撃手がキャッチ。藤岡の一塁走者はベース手前で振り向いて、味方走者が本塁を踏むのを確認し、バンザイしていた。2死満塁では各走者が次の塁に達しないと、得点にならない。走者の動きをよく見ていたことで、足利工はサヨナラ負けを免れた。

 試合は延長21回まで進んだ。表の足利工の攻撃、小林政夫が左越えに適時二塁打を放った。二塁から大出唯雄が悠々間に合うにもかかわらず、ヘッドスライディングで砂煙をあげながらホームイン。これが決勝点となった。左翼手だった奥沢利夫は「試合後は、延長15回のことは忘れてました。余裕なのにヘッドスライディングした大出の話で持ちきり。不思議と9回の試合より疲れてもなかったですね」。普段の練習と比べたら、試合は天国だった。試合日だけ特別に差し入れてくれた、瓶のオレンジジュースが楽しみだった。

 タフなチームをつくりあげたのは21歳の青年監督だった。古溝寿監督は法大2年在学中。監督のいない状況を見て、母校・足利工の監督を買って出た。180センチ、110キロ。十両優勝2回を誇る足利工出身の力士、八染茂雄と並んでも、見劣りしなかった。軽々と場外アーチを飛ばす怪力で、2年にして法大でもベンチ入り。その監督が、個人ノックを3時間ぶっ通しで行う。奥沢は2度経験したが、そのうち1度は途中で気絶してしまったという。

 だが、終わった後に「おれはうまくなった」という充実感が残る。順番に指名ノックを受け、鉄壁の野手陣ができあがっていった。また、エース池田には秘密があった。持ち球はカーブとシュート。取材にはそう答えていたが、実は落ちる球を持っていた。新聞記者にも内緒にしたシンカーを武器に、走者を出しても内野ゴロで併殺を重ねた。

 バッテリーを中心とした守りのチーム。古溝監督はそこに「10点負けてても1点を取りにいけ」と執念を植え付けた。藤岡との延長15回裏、打球に飛びついた小川にも、猛ノックで培った技術と根性、そして最後まであきらめない執念があった。足利工の甲子園出場で、古溝監督は大学の夏合宿を欠席。自分の選手生活は棒に振った。(つづく=敬称略)

【竹内智信】

 ◆栃木の夏甲子園 通算57勝59敗。優勝2回、準V1回。最多出場=作新学院13回。

56年時着用の足利工ユニホーム(右)とカラーテレビ化に伴い色の付いたその後のユニホーム
56年時着用の足利工ユニホーム(右)とカラーテレビ化に伴い色の付いたその後のユニホーム