野球どころの神奈川では1951年の希望ケ丘を最後に、県立高校が甲子園に出場していない(※90年の横浜商は市立)。この間、実に66年。これは47都道府県での最長ブランクでもある。67年前、県立の星が繰り広げた戦いを振り返る。

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 甲子園開会式前日のリハーサルのことだった。整然と行進練習に臨む希望ケ丘ナインの中に、高校生ではない“選手”がいた。「今だったら、絶対に許されないでしょうね、こんなエピソードは」。当時、2年生ながらに3番を任されていた内野雅史はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、話を切り出した。

 今なら新幹線で2時間半の道のりだが、当時は横浜から大阪まで特急で8時間という長旅だった。慣れない関西の地で、選手たちが水にあたった。「僕は大丈夫だったけど、何人かがひどい下痢になった」。白羽の矢が立ったのが、3月に卒業した前年のエース斎藤修三だった。「甲子園は憧れだったからね。先輩もやっぱりうれしかったんじゃないかな」。内野は懐かしそうに遠くを見やった。

 前年、希望ケ丘は県大会決勝で敗れ、甲子園出場を逃していた。スコアは0-1。斎藤は相手打線を2安打に抑えたが、味方打線も1安打。両チームゼロ行進の末、8回に失策絡みで決勝点を奪われた。試合時間の57分は今でも神奈川県の決勝の最短記録で、「学校に来てから見に行こうと思った生徒がいたけど、もう間に合わなかった」という逸話が残るスピード決着だった。ちなみに県商工のエースは大沢昭。大沢啓二の名前で知られる、あの“大沢親分”だ。

 49年には湘南が県勢初の全国制覇。浅野や逗子開成などの私立高校も奮闘していたが、戦後間もない神奈川は県立勢が優勢だった。希望ケ丘は1897年、神奈川県尋常中学校として誕生した県最初の公立中。野球部も1902年創部と長い歴史がある。内野いわく「常にダークホース的な感じ。優勝できる力は持っていた」という伝統校を初めて甲子園に導いたのが、23年に就任した下田理一監督だ。県の中学野球の審判長をしていた下田は県内から有力選手を勧誘し、チームの基礎を固めた。座学を積極的に取り入れ、強化を図った。雨の日や練習試合の帰り、内野はOBが経営する病院の会議室で講義を聴いたことを覚えている。「論理に優れた監督だった。当時の高校には珍しく、よくミーティングもした。かなり頻繁にやった印象が残っている」。試合の反省はもちろん、碁石を並べて守備のフォーメーションの理解を深めたりもした。

 迎えた51年の夏。内野によると、この年も希望ケ丘は「優勝候補筆頭ではなかった」という。しかし、大沢の県商工が2回戦で姿を消すなどライバル校が次々と敗退する波乱の展開もあり、ついに県大会を勝ち抜いた。初めてたどり着いた聖地。内野は甲子園の歴史に残る一打を放つことになる。(敬称略=つづく)【鈴木良一】

1951年、神奈川を制し甲子園初出場を決めた希望ケ丘ナイン(同校野球部創部100周年記念史より)
1951年、神奈川を制し甲子園初出場を決めた希望ケ丘ナイン(同校野球部創部100周年記念史より)