「西郷どん」の県は2人のライバルが引っ張っていた。明治維新で主人公となった薩摩こと鹿児島の高校野球は、鹿児島実を率いた久保克之(80)と樟南を率いた枦(はぜ)山智博(73)の両雄が火花を散らしたことでレベルアップした。久保は96年センバツで優勝し、枦山は94年夏の甲子園で準優勝。ライバル関係ながら「鹿児島愛」では一致した2人は、さらに違う生き方で「薩摩」の行く末を見守る。

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 久保野球が「王道」なら、枦山野球は「邪道」。2人はお互いを強力なライバルと意識しながら鹿児島の高校野球界をリードしてきた。

 久保 まずは投手力。そして守備。打撃は最後に整備します。オーソドックスな野球ですかね。

 枦山 どんな形でもいい。勝たないと意味がない。相手が嫌がることをする。これが私の野球ですよ。

 鹿児島の歴史をひもとくと、70年代までは鹿児島実と鹿児島商の「2強時代」。80年代に入ると鹿児島商工(現樟南)が入って「3強時代」。そして平成に入り、05年までは鹿児島実と鹿児島商工(樟南)の「2トップ時代」へと移り変わっていった。

 久保 鹿児島商の野球がお手本だった。バントで送ってチャンスを確実にものにして投手を中心に守り勝つ。グラウンド以外の私生活でもしっかり指導するやり方でした。

 高校野球の「王道」を行く。県内の体格、高い技術、将来性など、トップクラスの中学生を獲得していった鹿児島実に対して、鹿児島商工の監督に就任したばかりの枦山は、まともに戦っては勝てないことは分かっていた。

 枦山 とにかく体格の小さい子ばかりしか入学してこないんです。大きい子は鹿児島実か鹿児島商に行くでしょう。だから頭を使うというか、小技を使うしかない。甲子園に出たときなんかも5者連続バントなんてこともありました。

 2人が監督だったのは枦山が鹿児島商工の監督に就任した71年から、久保が鹿児島実の監督を勇退する02年夏までの32年間。その間、センバツ出場がともに7回。夏は鹿児島実が12回、鹿児島商工(94年から樟南)が13回。春夏通じて甲子園出場はほぼ互角である。94年夏は樟南が「福岡真一郎-田村恵」のバッテリーで準優勝(優勝は佐賀商)すると、刺激を受けるように96年センバツでは下窪陽介投手を率いた鹿児島実は悲願の甲子園優勝を果たした。まさにともに切磋琢磨(せっさたくま)して鹿児島のレベルアップに貢献してきたことになる。

 興味深いことに、正真正銘のガチンコ対決となる「夏の直接対決」に絞れば、枦山の9勝6敗とやや鹿児島商工に軍配が上がる。さらに決勝という甲子園をかけた大一番での対決でも、枦山が5勝3敗と勝ち越している。

 久保 枦山さんは「こすい」野球をしてくるからね。何をしてくるか分からない。そんな恐怖みたいなものはあった。

 枦山 鹿児島実は大型選手が多いから内野手の動きが鈍いなんてこともあったし、どんどんバントで揺さぶった。そしてたまにバスターするからきくんです。県民の高校野球ファンは「久保と枦山はユニホームを着てケンカしとる」と言ってましたからね。

 野球の競技の中、意地の張り合いをしていた2人。しかし、ユニホームを脱ぐと、ともに鹿児島を愛して高校野球を語り合う仲でもあった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

 ◆鹿児島の夏甲子園 通算66勝66敗。優勝0回、準V1回。最多出場=樟南19回。

樟南の枦山監督
樟南の枦山監督