近くて遠い。兵庫県の高校球児にとって、甲子園球場はこの言葉が当てはまる。甲子園が兵庫大会の会場になっていたのは、04年が最後。「聖地」と呼ばれる球場の過去、地方大会で使われた歴史を追った。

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 14年前の夏が最後のケースだ。04年、第86回全国高校野球選手権の兵庫大会。甲子園で報徳学園-東播工、関西学院-多可の試合が行われた。兵庫大会の甲子園開催は4年ぶりだった。

 兵庫大会でも使用された歴史は古い。甲子園は1924年(大13)8月1日に完成。十干十二支のそれぞれの最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年に1度重なり合う年で「甲子園球場(当時は大運動場)」と名付けられた。同年の第10回全国中等学校優勝野球大会(全国高校野球選手権大会の前身)の舞台となる。兵庫大会でも使用されたのは翌25年の第11回大会から。この年は兵庫大会1回戦から決勝までの19試合全てが同球場で行われた。

 その後、脈々と歴史は紡がれ、兵庫では特異なケースではなかった。1928年(昭3)の第14回大会まで、兵庫大会の試合は全て甲子園球場で開催。その後は他球場と併用されるなど、あくまで地方球場の1つとしての位置づけだった。全国の舞台とは少し違い、外野席は開放されず、席を埋めるのは各学校の応援団と選手の保護者といった関係者がほとんどだった。兵庫県高野連理事長の福留和年は言う。

 「伝統的に、特に兵庫県以外の人からは『聖地』だと思われていました。でも兵庫県ではいろんな球場の1つ、というスタンスでした。むしろ明石球場(明石トーカロ球場)が特別、メイン球場という意識がずっとあります」

 しかし、全国のスタンダードは違った。04年に話を戻す。全国ネットの高校野球番組が東播工に密着し、3-6で敗れた東播工の背景には甲子園球場が映った。次の日、兵庫県高野連の電話は鳴り続けた。「なんで兵庫県だけ使っているのか」「ずるいのではないか」。疑問や批判が殺到した。もともと「なぜ地方大会を甲子園でやるのか」という声はあった。それに加え、甲子園の日程調整や球場使用料の面で開催が難しくなっていたこともあり、05年の第87回大会から兵庫大会で使われなくなった。

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 時代のニーズに応えるべく、甲子園は産声を上げた。第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されたのは、現在の大阪・豊中市玉井町3丁目にあった豊中グラウンドだ。そのため、豊中は「高校野球発祥の地」と呼ばれる。第3回からは兵庫県の鳴尾球場が使われた。豊中グラウンドにあふれるほどのファンが押し寄せ、阪神電鉄が鳴尾競馬場内に野球場を造った。競馬の走路の内側に作られた野球場は、今の甲子園球場の4倍の大きさがあったといわれる。ただ、第9回大会では、その鳴尾球場でもファンがあふれるようになる。準決勝の試合で満員の観客が場内に入り込み、試合が続行不可能になった。この一件が甲子園建設につながり、翌年の第10回から聖地が全国の舞台となった。

 「ダンス甲子園」「俳句甲子園」「書道パフォーマンス甲子園」…。今、高校生が頂点を競う大会に「甲子園」という言葉がよく用いられる。多くの人の心に刻まれているシンボルの証しともいえる。第100回大会が開幕するのは8月5日。また今年も、聖地での夏の戦いがやってくる。(敬称略)【磯綾乃】