アポロ11号の着陸で人類が初めて月面を踏んだ1969年、夏の第51回大会は球史に残る大会になった。太田にとって2度目の夏の甲子園だった。「全国高等学校野球選手権大会70年史」は「二つ欲しかった大優勝旗」の見出しで松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝を総括する。4時間16分に及ぶ投手戦の末、決勝戦が初の再試合となった。

三沢は前年(68年)夏の第50回大会で甲子園初出場。2回戦で敗退したが、エース太田らナインは大舞台での自信を得て青森に帰った。69年センバツも出場したが、そこでも2回戦で浪商(現大体大浪商=大阪)に敗れた。2回戦突破を目標とし、3季連続で太田らは甲子園に乗り込んできた。1回戦で大分商を延長10回の末に退けたが、6日後の決勝で18回もの激闘を演じることになるとは予想だにしなかった。

太田 2回戦で大阪代表の明星を破ったときに、よっしゃ、目標達成。あとはおまけって。そこからどんどん調子がよくなってきた。プレッシャーから解き放たれて。決勝? へろへろ? 全然! ただ、あまりかっこ悪い試合はしたくないよなって。絶対に優勝するぞってほどの熱いものはなかったですね。

だが、決勝で投げ合う松山商のエース井上明の気持ちは違った。

井上 相手が太田に決まったときから、ぼくは太田を意識していた。すごい投手で大会の華。投げ負けたくないと思っていました。

高校卒業後は明大で投手、主将を務め、朝日新聞社で長年スポーツの取材に携わってきた井上の述懐だ。

井上 ぼくは投げ合う相手がいい投手のとき、自分もいい投球ができるんです。高校3年夏の北四国大会準決勝で丸亀商の井原(慎一朗=元ヤクルト)と投げ合ったときがそうだった。彼の間の取り方や軸足への体重の乗せ方を見て、これはいいなと。参考にしたら10回完封できました。甲子園の決勝の相手は太田。すごく気合が入りました。

甲子園春夏5度(当時)の優勝を誇る名門のエースの気概だった。

監督・一色俊作の「先に攻めて点を取る」方針で、松山商先攻で始まった決戦。太田は初回、2四球を出すも無失点。その裏、井上は2死から3番太田に安打を打たれたが、4番の桃井久男を三ゴロに抑えた。その後もともに走者を出すが、本塁は遠かった。

井上 うちの打線は上手投げの本格派が得意だった。4、5点は取ってくれる、自分がゼロに抑えれば勝てると思い、初回から飛ばしていきました。でもぼくらが持っていたイメージと、実際に打席で見た太田のイメージは違っていた。ストレートは浮き上がってくるし、ほとんど投げないと思っていたカーブをかなりの割合で投げてきた。コントロールもよかった。なかなか点は取れないと思うようになりました。初回から全力でいったから、終盤は握力がなくなっていた。

9回表1死二塁で松山商は太田を揺さぶる。田中茂が三塁線ぎりぎりにセーフティーバントを試みた。続く大森光生も初球を三塁線に転がした。2本とも、太田は好フィールディングで打者走者をアウトにした。

太田 あとでお会いしたとき、一色さんに「お前の守備はすごかったな。まともに打っても点が取れそうにないからかき回そうとしたけど、効かなかったな」とほめられました。

敵将をうならせた守備力。1日500球の投げ込み、走り込みで鍛え上げた足腰が、伝統校の奇襲を封じた。0-0のまま、決勝は延長に入った。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)