1976年(昭51)夏の甲子園で8打席連続安打を刻んだ末次は、その年の秋のドラフトで日本ハムから3位指名を受けた。だが、中大への進学を選ぶ。

末次 夏の大会前には中大に進学することが内定していた。夏の大会が始まって腰を痛めたこともあり、プロで活躍するのは難しいだろう、と。捕手として高卒は厳しいですよ。

進学後も腰痛は治らず、苦労した。そのままバットを振っていたこともあり、完治しなかった。腰をかばってプレーした影響からか、スローイングにも支障が出るなど肩も痛めた。学校側も多くの病院を紹介してくれたが、懸命の治療も十分な活躍には結びつかなかった。ヤマハ発動機を経て、指導者への道を歩むことになる。

末次 プロに行けば良かったかなって、ちょっと後悔したこともあった。周りからもなんでプロに行かんのかって、言われたし。(今季まで阪神2軍投手チーフコーチを務めた)久保(康生)も立花(義家=現ソフトバンク打撃コーチ)も社会人に決まっていたがプロに行った。そして(プロで)活躍する姿を見ていたしね。もし、プロに行くなら南海に行きたかった。野村(克也)さんが現役を退くタイミングだったし。自分が活躍できるかもって思った。

腰痛がなければ人生は大きく変わっていたかもしれない。しかし、今は、末次に何の後悔もない。

末次 自分の選択が間違いではなかった、という人生を送りたいと常々思っている。プロに行かなくてよかった、と今は思ってます。

ただ、自らが活躍することはなかったプロの舞台へ、指導者としては多くの選手を輩出することになる。母校の柳川だけでなく、自由ケ丘を経て、現在は真颯館(いずれも福岡)で指揮を執る。柳川時代は花田真人投手(中大-ヤクルト)と冨永安彦捕手(川崎製鉄水島-JFE西日本)、台湾からの留学生・林威助外野手(近大-阪神)、香月良太投手(東芝-近鉄-オリックス-巨人)と良仁投手(一経大-熊本ゴールデンラークス-ロッテ-現鮮ど市場ゴールデンラークス)の兄弟、田中瑞季内野手(住友金属-ダイエー-ソフトバンク-ロッテ)らをプロに送り込んできた。いずれも本人から進路相談を受けたときには、大学進学か社会人入りを勧めたというが…。

末次 18歳くらいの年齢でプロにいけば、いきなり大金を手にするでしょう? 金銭感覚もおかしくなる。大学、社会人を経て少しは世間を知ってからでも遅くはない。高卒は厳しいですからね。

自由ケ丘ではオリックスに入団した武田健吾外野手を育てた。「本人がどうしても行きたい」と言ったため「全面的にサポートした」というが、本心は違っていたという。自身もかつて華やかな世界を夢見たが、世間を知ることも大事なことだと考える。それでも、多くのプロ選手を輩出し続けた。それは、練習漬けだった自身の高校時代とは、対照的な道を歩ませた結果だった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)