高嶋仁は長崎・五島で生まれ育った。父は製氷会社に勤め、一家を支えていたが、暮らし向きは楽ではなかった。

高嶋 おふくろに言わせると給料が安かったようで。僕らのときは、一般的に普通の家庭の子やったら工業高校に行って就職。でも僕は野球をやりたかったんで、生活のことは分かっていたんですが、親に頼んで海星に行かせてほしいと。両親も「まあ、ええやろ」と行かせてくれたんです。

海星(長崎)2年夏の甲子園出場が、高嶋の人生を決めた。開会式で聖地の土、芝生を踏みしめ、人で埋まった内外野スタンドを見上げたときの感動。高校野球の指導者になり、教え子とともに戻って来ようと心に決めた。高嶋は再び、両親に頭を下げた。「教員になりたい。大学に行かせて下さい」と。だが甲子園出場を喜んでくれた父も、なかなか首を縦に振らなかった。長男の高嶋に、地元で就職してほしい思いもあった。助け舟を出してくれたのは母。「私も働くから」と父を説き伏せた。

海星同様に日体大も、ベンチ入りの定員をはるかに超える部員がいた。厳しい競争に加え、当時は上級生による理不尽なしごきがあった。1年春のリーグ戦から「3番中堅」のレギュラーを勝ち取ったが、正座をさせられての長時間の説教、ランニングなど下級生の悲哀を味わった。

高嶋 そのたびに思いました。こんなことしか出来んのか? 野球で勝負せえよ。勝負したら俺は絶対、お前らには負けへんぞって。だって負けられへんのです。無理言うて大学まで行かせてもらった。それを思うと少々しごかれても、全然こたえんかったです。

夏、冬、春休みで野球の練習がない期間は、母からの仕送りに加える学費と野球道具の購入費を稼ぎ出すため、晴海埠頭(ふとう)に停泊した船舶内で荷物の揚げ降ろしをするアルバイトに励んだ。24時間ぶっ通しで働き、16時間休憩してまた24時間。その繰り返しで1カ月働き、大卒の初任給がひと月3万円だった時代に30万円稼いだ。野球とも両立させた。

高嶋 2週間の合宿で、最初の1週間は全然だめ。野球の練習、何もしてませんから。だからみんなが寝とる間にバット振って、後半の1週間にかけるんです。他のやつは最初の1週間は調子ええんですが、後半はあかん。僕はだんだんよくなる。毎年そんな感じでした。

高校野球の指導者は、選手を続ける夢をあきらめた後に芽生えた夢だった。

高嶋 高校のときに肩が壊れ、もうまともに投げれんかった。それでも大学まではなんとか変なボールでも使ってもらえたけど、それ以上は無理やなと自分でわかってました。プロまではいかんけど、ノンプロでやりたい思いはあったんですが、治らなかった。それなら指導者になろう、甲子園に出ようという思いを高校2年で持ちました。

新たな夢のため、両親は家計をやりくりし、無理を聞いてくれた。練習の厳しさにも部内の理不尽な上下関係にも「負けられへん。こんなことでやめられへん」と歯を食いしばることができた。不屈の魂は日々育まれていった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月9日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)