80年夏、準々決勝の箕島(和歌山)戦は3回までに3-0と優位に試合を進めたが、5、6回に1点ずつ返された。横浜は4回以降無得点。終わってみれば3-2の接戦だった。右翼手の沼沢尚は3安打したが、失点につながる失策をした。渡辺はベンチで冷たい視線を投げかけた。

その夜、兵庫の竹園旅館で風呂に入った後、素振りに向かう沼沢とすれ違った。恐る恐る自分を見る沼沢に「明日(試合に)出たいのか」と聞いた。「出たいです」。即答されるとこんな言葉が口を突いた。

「今日みたいに、素直にバットを振ればいい」

失策の話はしなかった。73年春。広島商との決勝で失策した冨田毅が決勝2ランを放った時と同じだった。怒りを抑え、言葉で背中を押せた自分がいた。

準決勝の天理(奈良)戦はどしゃぶりだった。中断の後、1点を追う7回裏2死一、二塁。渡辺は8番沼沢に異常なまでの強気で「行け、行け」と目で合図した。

沼沢 打席に入る時、監督の顔を見て「昨日の夜、素直にバットを出せばいいって言ってたな」と思い出したのもありました。ボールが止まって見えるような、大きく見えるというか。一生に1回じゃないけど、絶対打てる気がした。

沼沢が初球の高め真っすぐを引っ張ると、打球は水しぶきとともに三遊間を抜けた。1-1の同点。続く9番宍倉一昭が右中間へ適時三塁打を放った。下位打線で、あっという間に試合をひっくり返した。

「よく、8番9番で点を取ったと思う。73年に冨田にやったことが、変遷をたどってよみがえってきた。言葉には味と信念があると思った」

大会本部が「雨天コールド」をささやき始めた中での逆転劇に勢いづき、決勝戦で元ヤクルトの荒木大輔擁する早実(東京)を下し夏初優勝を飾った。

84年秋、関東大会準々決勝の前橋工(群馬)戦の前日。あと1つ勝てば約4年ぶりの甲子園というところで、アクシデントが起こった。空っ風の吹く群馬の河川敷で、練習中に正捕手の中山慎一がバットとボールの間に右手の人さし指を挟んだ。真っ赤に染まった指先の肉がベロンと剥がれ落ちた。病院に連れて行ったが縫うこともできなかった。明るくてお調子者の中山が声も出せず、痛みと悔しさを押し殺していた。渡辺は旅館の一室に設けられた監督室へ中山を呼び、テーピングを手に取った。

中山 監督さんが自らテーピングを巻いてくださり、最後に指をグッと握ってくれた。「大丈夫だからな」って。今でも思い出すと…ね。念ですよ。それがいい結果になったと思う。

渡辺はベンチ前で円陣を組む際、必ずしゃがむ。選手と同じ目線になって顔を見渡す。「じーっと見ると、悲しい目をしているなとか、いろんなことが分かる」。そんな時は多くを語らず、そっと肩に手を当てる。言葉に加え、目線やスキンシップなど、指導にとって大切なことをあの逆境から学んだ。

前橋工を1点差で退け11年ぶりの春の甲子園出場を決めた。この後、渡辺は一時部長職へ退き、ほどなくして、横浜の同期生で盟友の小倉清一郎を、右腕として呼び戻した。(つづく=敬称略)【和田美保】

(2018年3月22日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)