開幕9連勝を挙げた阪神バッキー(左)はリリーフ登板した本間勝(中央)をねぎらう。右は辻佳紀(1964年5月16日撮影)
開幕9連勝を挙げた阪神バッキー(左)はリリーフ登板した本間勝(中央)をねぎらう。右は辻佳紀(1964年5月16日撮影)

外国人選手の待遇。今と昔を振り返ってみると大きく変わった。今や、住まいは一家が余裕を持って暮らせる高級住宅であり、高級マンション。家にかかる経費は球団持ち。そして、遠征先の宿舎は一流ホテルが当たり前。活躍しようがしまいが、契約期間中の変更はない。球場通いも往復タクシー。まさに至れり尽くせり。しかしかつては電車で通勤していた選手もいたのだ。

半世紀前と比較してみるとよく分かる。当時、各チームにどんな外国人選手がいたかは定かでないが、私が現役時代の阪神にはマイケル・ソロムコとジーン・バッキーがいた。そう、バッキーといえば日本球界で通算100勝(80敗)をマーク。1964年の阪神が優勝したシーズンには先発に、リリーフに、分業システムの現代ではあり得ない大車輪の活躍をしたピッチャーである。MVPこそホームラン数の日本記録を塗り替えた巨人王貞治氏に譲ったが、最多勝(29勝)最優秀防御率(1・89)沢村賞に輝いた。阪神へはテスト入団した苦労人。待遇たるや全てが日本人選手と同じ扱いだった。

バッキーの住まいといえば、甲子園球場まで徒歩で10分足らずの2階建て木造アパートだった。間取りとか家賃まではよく知らないが、外見と当時の物価等から想像すると1万円前後? かな。テスト生、入団当時の安月給を考えたら致し方ないところだろうが、半世紀前はこれが外国人選手の扱いだった。

冒頭で現在の遠征先宿舎について触れたが、あの頃といえば日本人選手と同じ日本旅館。和室に布団を敷いて外国人同士の相部屋。背の高いバッキーには布団が短くて足元に座布団を敷いたりしてごまかしていたが、サイズは布団だけにあらず、浴衣にも飛び火が……。190センチの長身。旅館には特大、大、中、小の4サイズがあったと思うが、特大を着てもツンツルテン。膝までしかない。昭和30年代の外国人と浴衣。つい、プッと吹き出しそうになるぐらい滑稽だったのを覚えている。

それでも、食事会場へ着て来るとご機嫌で食事をしていたところをみると、意外に気に入っていたのかも知れない。その姿を見て我々が大笑いしても「シカタナイネ」両手を広げ拙い日本語でテレてはいたが、表情はまんざらでもなさそうだった。来日したては上手く使えなかった箸も、何年か生活しているうちに違和感はなくなった。仕事とはいえ、慣れない他国での生活。大変な思いをしただろうが、文句一つ言わず黙々と投げ続けてきた結果の100勝である。努力も認められ、球団の待遇にも変化が出始めた。

阪神のキャンプが1965年から高知県安芸市で行われるようになった。温暖の地。野球場が新設された。聞くところによると日照時間は宮崎より長いという。申し分ないキャンプ地ができたと思いきや、問題が起こった。外国人選手の宿泊施設である。なにぶん田舎である。日本旅館はあるものの、洋間のあるホテルはない。2、3泊という短期間の宿泊であれば問題ないが、1カ月の滞在となると別問題。大いに悩んだ末の結論は、新規にプレハブ住宅を建て、ベッドでの生活ができるようにするという配慮だった。人呼んで“バッキーハウス”。球団としてやっと個人に気遣いを見せた一例。外国人には厳しい時代だった。

現在との比較をバッキーに絞って書いてみたが、これが一番分かりやすいと思って取り上げた。一番不便を感じるのはやはり言葉の違い。一流ホテルであれば英語に堪能なホテルマンはたくさんいるが、日本旅館では無理。もちろん通訳はいるが、直接話が通じないもどかしさは、他国に住んだ者でないと分からない。言葉の問題は本人たちのみならず、通訳などついていない家族は尚更大変。ただ、バッキー夫人は近くに住んでいたソロムコの奥さんが日本人で大助かりだったと聞いた。待遇。今を考えてみるとまさに雲泥の差。【本間勝】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「鳴尾浜通信」)

阪神のジーン・バッキー投手
阪神のジーン・バッキー投手