元日本ハムの保坂英二さん(64)が営むバー「ラ・メール」は、茗荷谷駅から徒歩10分ほどのところにある。


「ラ・メール」のカウンターに立つ保坂さん
「ラ・メール」のカウンターに立つ保坂さん

 カウンター後方に多数の酒が並び、大画面のテレビで野球観戦もカラオケもできる。このような店は多々あるだろう。だが、店内に打撃練習やゴルフ練習ができるネットが設備されている…こんな店は少ないのではないだろうか。


 保坂さん(以下、敬称略) 私が1人でやっている店なので、あまり席数が多くても対応できません。だから席を増やさず、あのようなスペースをつくりました。


 ゴルフクラブが常備されている。バーチャルのゴルフバーは多いが…


 保坂 ゴルフバーは、値段が高いでしょう。うちは実際にボールを打てます。クラブは常連さんが「もう使わないから」と置いていったものです。皆さん、うちに来て打っていかれます。


 野球も教えている。


 保坂 お客さんの息子さんとか、小学生に基本を教えています。ランチを終えた後に時間があるので「午後4時ごろにおいで」と言って2時間ぐらい指導します。それで、7時から夜の営業です。お金は取っていませんから、野球塾とかじゃないですよ。


 野球指導は小学生だけではない。元AKBの前田敦子さんにも教えたという。映画「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」で、野球の技術指導をした。DVDを借りて見直すと、確かにエンドロールで「野球指導 保坂英二」と名前が出てくる。


 保坂 プロデューサーが知人で依頼されました。私はAKBを知りませんでしたが、前田あっちゃんと峯岸みなみさんが出ていました。素晴らしい子たちでしたね。これでAKBを知り、以来、彼女たちを応援しています。


 どんな指導を…


 保坂 打撃の構えやスイングです。部員と対決する場面がありますが、プレーの場面はソフトボール選手が準備されていて、顔を映さず代役にする予定でした。でも、前田さんが「私、やります」と言ったんです。女優魂ですね。キャッチボールもしましたよ。あっちゃんに「先生」と呼んでもらいました。


「もしドラ」の試写会で選手宣誓する前田敦子(中央)
「もしドラ」の試写会で選手宣誓する前田敦子(中央)

 もう少し前田敦子さんについて聞きたいところだが…その前に保坂さんの野球人生をたどりたい。高校時代は、華やかなスター投手だった。


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 保坂さんは日大一中学から日大一高校に進んだ。中学時代に東京大会の決勝まで進み、早実中と対戦した。


 保坂 延長20回ぐらいまでの熱戦で…再試合までやったかな? とにかく0-1で負けました。でも、それで早実から誘われたんですよ。早実も今ほど勉強も厳しくなかったから。でも、断って、そのまま進学しました。


 日大一では入学直後から登板機会を与えられた。エースは3年生の小山良春さんだったが、先発マウンドにも立った。夏の東京大会ではセンバツ準優勝の堀越も破って、甲子園に出場した。1969年(昭44)。決勝で松山商と三沢が延長18回の末に再試合を戦った年である。

 甲子園の1回戦、東洋大姫路戦は、小山さんが完投して出番がなかった。2回戦の相手は静岡商。のちにプロ野球の中日で主軸打者として活躍する藤波行雄さんが3番打者にいた。

 保坂さんの甲子園デビューは、藤波さんへのワンポイント登板だった。0-1の6回裏1死二塁でマウンドに上がり、二塁への内野安打とされた。その後レフトを守り、1-2の8回1死二塁で藤波さんを迎え、再びマウンドに上がった。記録を見ると、左越え二塁打を浴びている。


 保坂 あれ、完全なレフトフライですよ。レフトが目測を誤って二塁打になってしまった。最初の打席もセカンドゴロが内野安打になってしまったし、不運でしたね。


1969年夏の大会で力投する日大一・保坂英二投手
1969年夏の大会で力投する日大一・保坂英二投手

 翌70年の夏はエースとして甲子園に乗り込んだ。1回戦の都城戦では17奪三振で完投勝利を挙げた。


 保坂 三振はよく取っていましたね。球種は真っすぐとカーブ。工藤公康が投げていたようなタテのカーブですね。高校生はほとんどバットに当たりませんでしたよ。


 当時の記事を読むと、東京大会では47イニングで67個の三振を奪っている。春季大会では1試合で21奪三振もあったと書かれている。


 保坂 練習試合では22、23三振もあったよ。それから高校3年の時だけど、日大鶴ケ丘に6回コールドで勝った時、17三振を奪った。18個のアウトのうち17個が三振です。1個だけショートゴロがあった。「当てられちゃった」という感じです。


 2回戦までの期間に不幸なできごとがあった。宿泊していた兵庫県の旅館内で後輩が死亡するアクシデントに見舞われた。


 保坂 旅館では、夜中まで現場検証をやっていました。最初は事故死じゃないかと、不祥事のような騒ぎになってしまった。学校は出場辞退を申し入れ、我々も帰る準備をしていました。仲間が亡くなったショックで「試合をしたい」という者はいませんでした。辞退で当然という雰囲気でした。


 当時の新聞記事には「プロレス遊びをしているときに亡くなった」と書かれている。


 保坂 でも病死だったと分かった。高野連に「事故ではないから出場しなさい」と言われて、急きょ2回戦も出ることになった。みんな練習もやれる雰囲気ではありませんでした。試合も応援なし。スタンドが空っぽの状態でやりました。


 ショックは隠せなかった。保坂さんはボークで先制点を奪われ、死球押し出しや暴投で失点を重ねた。2-5で大分商に敗れた。


 保坂 乱れましたね。他に投手がいれば代えられて当然の内容でした。ただ、アクシデントのショックと言ったら言い訳になってしまいます。


 3年夏は全国制覇の期待もかかったが、初戦となる2回戦で磐城に0-1で負けた。相手のエース田村隆寿さんは、身長165センチと小柄で「小さな大投手」と呼ばれた。決勝まで進み、準優勝している。

 保坂さんも身長169センチと小柄だった。


 保坂 私の方がちょっと大きかった。田村は先日も店に飲みに来てくれましたよ。磐城高校の同期の仲間たちと一緒にね。甲子園後の日本代表の遠征で一緒になり、ずっと連絡を取り合っています。後で聞いたところ、磐城はうちの情報を集めまくって、サインまで知っていたって。田村もそう言ってました。今で言うデータ野球で負けました。田村を打てなさすぎたね。


 日本一を狙えるメンバーだったと、今でも思っている。


 保坂 リーグ戦なら優勝できた。それぐらいの力はあったと思いますよ。


 ちなみに保坂さんは一部で「ミニラ」という愛称で呼ばれていたという。


 保坂 言われてましたね。小さいけど胸板とか厚くて、よく三振を取っていたからじゃないかな。


 のちに「ゴジラ」の愛称で呼ばれる松井秀喜さんは、まだ生まれていない時代である。


店の前に立つ保坂さん
店の前に立つ保坂さん

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 3年連続の甲子園出場で、保坂さんの評価は高まっていた。プロ球団からも注目されていた。


 保坂 自宅にもスカウトが来ていました。私が学校に行っている間に来て、親が「ドラフトで指名したら、よろしく」と言われたそうです。ほとんど全部の球団が来たんじゃないかな。


 プロを待ちながら明大進学も決めていた。


 保坂 指名がなかったらということで。もしバッテリーで明大に入ったら、日大一からあと3人取ってくれると言われていた。ただ、私がプロに入っちゃったのでキャッチャーしか行きませんでした。


 東映フライヤーズから2位指名され、入団を決めた。球団は日拓ホーム・フライヤーズ、日本ハム・ファイターズと変貌していく。


 保坂 セ・リーグ希望はあったけど、本拠地は東京だし、同じプロ野球だからと入団を決めました。


 希望を持って入団したが、すぐにアクシデントに見舞われた。キャンプ前の自主トレ中だった。


 保坂 肩を痛めてしまいました。キャッチボールではよかったけど、投球練習を始めたら…よく言う違和感というやつですかね。おかしいなと思いました。


 当初は我慢して投げていたが、キャンプ中に首脳陣に告げて治療に入った。


 保坂 病院に行ったり針を打ったり、いろいろやりましたが、ダメでしたね。仕方がないから痛み止めの注射を打って投げたけど、治るわけじゃない。また打たないといけないからね。


 1978年(昭53)限りで戦力外通告を受けた。通算7年間で1軍の登板は7試合。勝ち星は挙げられなかった。


 保坂 プロでは1回も自分らしいボールを投げられなかった。でも、仕方がない。毎年、10人入れば10人が辞めていく世界ですから。私の自己管理ができていなかったのかもしれないしね。それに、戦力外といっても「裏方に回ってくれ」と言われたので、球団に残れるのはありがたいと思いました。


 翌年から打撃投手やスコアラーを務めた。


 保坂 今のような分業の時代じゃないから何でもやりましたよ。先乗りスコアラー、ビデオの編集、サブマネジャーと一緒にグラウンド作りや練習の準備もしました。でも、楽しかったですよ。好きな野球の仕事ですから。


 84年限りで退団することになった。


 保坂 球団が一新するタイミングで、契約しない旨を伝えられました。野球選手の宿命ですから仕方ありません。他の人がそうなる場面を何度も見てきましたからね。私は退団後も球団に遊びに行っていますし、今も行きますよ。


 31歳で、初めて野球界を離れた。さて、何をすべきか? 思案中の保坂さんにアドバイスを送ってくれた人がいた。

 その後の人生にとって、非常に大きな助言だった。(つづく)【飯島智則】