また「1・17」が巡ってきました。当時、遊軍記者としてイチロー氏、オリックス・ブルーウェーブを取材していましたが、秋には「がんばろう神戸」を目撃させてもらったことを覚えています。けれど、もっとも記憶に残っているのは家庭の中のある光景でした。

1995年(平7)1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生した時。当時、暮らしていた大阪・吹田市のマンションも大きく揺れました。

「どーん」という縦揺れでびっくりし、目を覚ましたのですが、もっと驚いたのは隣に寝ていた妻が取っていた行動です。

1歳3カ月の長女を間に挟み、文字通り「川の字」で寝ていたのですが、その長女を防御するように腕立て伏せの形で必死に覆いかぶさっているではないですか。ぼうぜんとしていたこちらもハッとし、妻の上から同じ格好をし、続く揺れに耐えました。

どこまでも子どもたちを愛していた妻は、しかし、2000年(平12)11月15日、カープ担当で広島に赴任している時、3番目の赤ちゃんを出産した11日後に急死しました。35歳。

家族や大事な人が突然、旅立ってしまうと、悲しみというより、何がなんだか分からない気持ちに支配され、本当に混乱するものだと経験から思います。

当時、長女が小学校1年生。次女は幼稚園の年中組でした。小さな子ども3人を残し、妻は逝きました。この事態に会社も衝撃を受け、その3月に転勤したばかりでしたが「すぐに大阪に戻れ」と大阪本社への復帰が決まったのです。

それでも残務処理もあり、しばらく広島に残りました。その12月15日。かつての広島市民球場でぼんやりしていると、同業他社の大先輩が話しかけてきます。

「おい。あれから1カ月じゃね。1カ月、1年、そしてまた1年と年月を重ねて、落ち着いてくるんよ。人間はね」

くしくも、その先輩も、奥さまに先立たれた経験を持っておられます。「1カ月たっても悲しみ、苦しみは変わってないよ。そういうものかな」と当時は思いましたが、確かに1年、また1年と時間が過ぎるとともに、気持ちも少しずつ変化していきました。

もちろん、悲しみは続きますが、赤ちゃんだった三女も大学を卒業し、社会人になった今、悲しみと同時に妻への感謝の気持ちが一番大きくなっています。

大震災から29年。言うまでもなく、被害にあわれた方々の悲しみは「1・17」に限って湧き上がってくるものではありません。

終戦記念日などもそうですが「メディアはそのときだけ騒ぐ」という批判的な見方もあると思います。

実際、マスコミの立場にいながら、こちらもそれに近い感覚を持っていました。それでもその大先輩に言われたことを振り返ると「節目」の持つ意味、不思議さが実感されるのです。

新しい1年が始まって、17日。今年も命ある限り、1日1日を大切に生きていこうと思うのです。【編集委員・高原寿夫】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「高原のねごと」)