11月4日、東都大学野球秋季リーグ第8週最終週の第3回戦が神宮球場で行われ、東洋大が亜大を4-3で破り、2季連続18度目の優勝を果たした。


 優勝で沸く東洋大の選手たちを、亜大選手たちは一塁側ベンチからじっと見つめていた。涙を流しながら…。

ベンチから東洋大優勝を見つめる選手たち(写真・新井賢一)
ベンチから東洋大優勝を見つめる選手たち(写真・新井賢一)

 試合後、生田勉監督(51)は、「いいゲームでした。できることはすべてやった。後悔はないです」と話した。


 この秋のリーグ戦は、3年生以下の選手が中心。しかし、それを支えたのはどん底から這い上がった4年生の力だった。

 生田監督は、7月初旬、学業と野球への取り組み方を理由に4年生全員を退寮させた。選手たちはそれぞれグラウンドから5分ほどのアパートを借り練習参加。北村拓己主将(4年=星陵)は、「正直、もう野球は無理だと思った」と振り返る。自炊で体重も落ち、野球をあきらめかけていたとき、7人の4年生がキャンプメンバーに選ばれた。しかし、「参加は自由」。「やるしかない。ラストチャンスにかけよう」と声を合わせ参加。信頼を回復するには、練習で見せるしかない。朝6時からの朝練習に備え、4年生は自主的に朝4時から練習した。

 「チャンスをもらったからには、生かすしかない。みんなで起こし合って、毎日が必死でした」(北村)

 一時も気を抜かないキャンプを過ごし、その取り組む姿勢が認められ、キャンプ後、4年生全員が寮に戻ることを許され開幕を迎えた。

 「監督に許していただいたときは本当にうれしかった。すぐに東京に残っている4年生に電話をして、“みんなでもう一度頑張ろう”って。今でもよく覚えています」(北村)

 信頼を回復した4年生。チームの野球に取り組む姿勢も変わった。この秋から、毎日の野球ノートが1ページから2ページに増えた。それぞれの野球の分析、目的、課題をより細かく書くため。正随外野手(3年=外野手)の選球眼が磨かれ高打率を残せたのは自己分析を深めた結果。さらに、全員の野球ノートをアイクルーム(ミーティングルーム)に置き、全員が見られるように。練習の合間を見ては、チームメートのノートにも目を通し、お互いが考えていることも理解した。


 しかし、秋季リーグ戦は決して順調ではなかった。

 第5週、立正戦で2連敗すると、翌日の夕方、4年生だけで練習。全員が大きな声を出し泥まみれになってボールを追いかける。その姿に、下級生も奮起。チームは生き返り優勝決定戦へと向かった。

 かつて、亜大野球部は「ブリキ軍団」と言われた。1日でも休むとブリキは錆びてしまう。毎日、毎日、泥臭く練習で磨き上げてこそ、輝くからだ。

 北村選手は言う。「見栄えなんてどうでもいい。泥臭くても勝ちたい」、と。

 一度は、サビつきかけた4年生が再び立ち上がった秋。

 4日の東洋大との優勝決定戦では、5回、無死一、三塁から近森雄太外野手(4年=崇徳)の右翼への適時打で2点。7回には甲斐野央投手(3年=東洋大姫路)の投球間に、三塁走者の平田真澄外野手(4年=富山第一)が本盗を決め追加点を挙げた。

 この日の3点は、すべて4年生によるものだった。


 試合後のミーティングで生田監督は、選手たちにこう話したという。「練習でやってきたことを全部出し切った。お前たちは、本当にカッコよかったぞ。亜細亜大学、60年の歴史の中で堂々と語れる価値がある。俺は、お前たちと1年間やってきて、本当によかった。ありがとう」。


 優勝は達成できなかった。しかし、それを目指し監督、選手が一丸となって汗を流した日々で、この日、ブリキは神宮球場で光輝いた。


 今年、生田監督の誕生日。4年生は全員の名前をラベルに書き込んだお酒をプレゼントした。いつか…優勝を果たしたとき、生田監督は、今年の4年生を思いながら美酒に酔いしれるのだろう。

左から北村選手、近森選手。4年生の活躍がチームを支えた(写真・新井賢一)
左から北村選手、近森選手。4年生の活躍がチームを支えた(写真・新井賢一)