「勝ちましたね~。8回2点差、エラーで出塁とか、ゾッとしましたよ(笑)」。


2点ビハインドの8回表、1死一、三塁のピンチを切り抜けて12年ぶり8強入りを果たした後輩たちを、並々ならぬ思いで感情移入していたOBがいる。2000年春夏甲子園出場を果たした反頭(たんどう)一臣さんだ。お盆休みの中の自宅リビングで、母校の3回戦をテレビ観戦。22年前とユニホームは変わったが「国学院栃木」という校名には今でも敏感に反応してしまう。そして「柄目直人」という名前にも…。「後輩たちが“リベンジ”してくれましたね。ナイスゲームでしたよ!」。自分のことのように心から勝利をよろこんだ。


■ミスのあと「国学院栃木の柄目君に打たれた」苦い記憶


 前回の九州学院-国学院栃木の対戦は22年前にさかのぼる。2000年センバツ大会。当時のエース反頭さんは大会NO・1の防御率0.51の実力をひっさげセンバツ初戦を完封勝利。2回戦も自ら2点タイムリーを打ち3点リードで9回表。勝利は目前と思われた。しかし、ここから悲劇が始まる。

1死からレフト善積が落下点に入るも不運な落球。ファースト松本もファウルフライが風に流され捕れず、1死二塁。ここから3連打を浴び同点とされた。当時、球場でこの試合を見ていた記者は、ここで甲子園の空気が一変したのを覚えている。そのあと1番打者に勝ち越しの右前タイムリーを打たれ、5-6で逆転負け。この時、殊勲打を打った相手打者がみごとだったが、その人が現・国学院栃木監督の柄目直人さんだと一致した時は鳥肌が立った。

柄目選手は試合後のインタビューで「今日は負ける気がしなかった。タイミングを外されないように打った。僕が塁に出てスキのない攻めをしたい」と興奮して話した。一方、打たれた反頭投手は涙。その悔しさを原動力にして夏もう1度、甲子園に戻ってくることになるが、「頭が真っ白になった」苦い思い出は40歳になった今でも脳裏にこびりついて離れないそうだ。


「柄目君に打たれたのはフォークの抜け球。仲間のミスを自分が何とかしようと気負いすぎて動揺してしまいました。私はそのあと亜細亜大学に進んだのですが、2003年、九共大・馬原孝浩投手との投げ合いを制して臨んだ大学選手権の決勝戦でも同じようなことが起こった。7回から同点のマウンドに立って、失点してしまったんです。『野球は最後まで分からない』という怖さを痛いほど知った野球人生でした」


「勝った試合よりも、負けた試合のほうが何十倍も記憶に残っている」と言う。おそらく高校球児の多くは同じ思いでその後の人生を歩んでいることだろう。ラスト1イニングの難しさ、怖さは誰よりも知っている。だからこそ頼もしく戦った後輩たちの姿に感動を覚えている。

「九州学院は守備が良いですね。内野は社会人野球の選手のような動き。土のグラウンドに合わせた足運びと、捕球ができていますね」。東京ガスまでプレーした経験を踏まえての賛辞を贈った。反頭さんは社会人4年目で黄色靭帯骨化症を患い、26歳でユニホームを脱いだ。教え子とともに甲子園に戻ってきた柄目“君”の活躍をテレビ越しに見て熱い記憶が蘇ってきたという。後輩チームはヤクルト村上宗隆の弟・慶太に話題が集まるが、反頭さんの目には内野手たちの奮闘が印象的だった。12年ぶりの準々決勝で創部初の4強入りがかかるが、ユーモアを交えた「九学流」のメッセージを優しい口調で送る。「好事魔多し! エース直江くん、打った後のピッチングはホント気を付けてネ!」。【樫本ゆき】