1906年(明39)創部で110年目の夏を迎えた市岡が、1回戦の金光大阪戦で2点リードの9回2死から逆転3ランを浴び敗れた。夏の高校野球100年で第1回大会から地方大会皆勤校は全国で15校しかなく、市岡は大阪で唯一の伝統校。夏の勝利数上乗せの挑戦は、来年以降も続く。

 逃げ切り可能の2点リードだった。9回表の守りで1死から相手2、3番に連打され、4番にも左前へ運ばれた。しかし、1度は三塁で止まった走者が本塁をうかがい、その結果三本間に挟まれた。ボールをつかんだ市岡の主将、菱川翔太捕手(3年)が走者を三塁へ追い込むが、帰塁が一瞬早い。1死満塁のピンチを背負うと見られた次の瞬間、走者は三塁ベースコーチと接触しアウトの宣告。2死一、二塁と場面が変わった。市岡にとっては夏の勝利へあと1アウト。

 だが逃げ切れなかった。市岡のエース田島潤也が、金光大阪5番の右打者上岡龍太(2年)に左翼へ3ラン本塁打を浴び、土壇場でひっくり返された。田島は「低めの真っすぐです。失投ではなかった」と言い、菱川主将は「打った方がうまかった」と無念の表情だった。その裏の反撃も得点にはつながらず1点差負け。

 野球の怖さ、転じて面白さを大会直前にも味わっていた。5日に行った同じ大阪の伝統校、天王寺との練習試合は田島が4回までに8失点降板したが、13-12で勝った。その前日4日、日新との練習試合では2-0から8回裏に3点を奪われ敗れた。夏本番も野球の怖さと面白さを痛感したが、これも市岡の歴史の1ページに大事に収める。

 夏の地方大会皆勤校。宇賀神(うがじん)充利監督(42)は「途切れさせてはいけないと、毎年プレッシャーを感じる」と言う。2年前の夏初戦に大阪大会200勝を達成(同夏3勝し現在202勝)したが、14、15年と夏初戦敗退。白星上乗せは17人の2年生、20人の1年生に託された。【宇佐見英治】

 ◆地方大会の出場皆勤校 全国高校野球選手権大会は1915年に全国から73校が参加して第1回大会が開催された。その後、今年の97回大会まで地方大会に皆勤で出場しているのは市岡など15校だけ。他は岐阜(岐阜)、旭丘、時習館(以上愛知)、西京、山城、同志社(以上京都)、関西学院、兵庫、神戸(以上兵庫)、桐蔭(和歌山)、鳥取西、米子東(以上鳥取)、大社、松江北(以上島根)。1世紀もの間、皆勤で出場を続けるが、甲子園を狙える強豪校も少なくない。

 ◆市岡高野球部 1906年(明39)創部。放課後に学校のグラウンドを使えるのは週1、2回。土、日は練習試合などを行う。春11回、夏10回甲子園に出場。大阪の公立高校の甲子園出場は95年のセンバツの市岡が最後。OBの広岡知男(元朝日新聞社社長)、佐伯達夫(元日本高野連会長)らが野球殿堂入りしている。