大阪桐蔭・西谷浩一監督(54)が智弁和歌山・高嶋仁前監督(77)の甲子園歴代最多68勝に並んだ。

2005年夏の1回戦、春日部共栄(埼玉)戦の甲子園1勝から白星を積み上げ、この日は甲子園で2度の準優勝を誇る強豪・北海(北海道)を相手に快勝。3大会連続の初戦突破が記念星となった。

高嶋前監督はかつて、歴代3位のPL学園(大阪)・中村順司元監督(77)の58勝を上回った際、「ウサギとカメにたとえれば、中村さんはウサギで僕はカメ。中村さんが高校野球の監督を続けておられれば、とても届かなかった」と超速の先駆者を語っていた。高嶋、中村という2人の名将と西谷監督の関わりは深い。

08年夏、浅村栄斗(楽天)、萩原圭悟らと甲子園を自身初制覇。先輩の平田良(元中日)や中田翔(中日)らがいた05~07年のチームの強さも改善点も受け継いだ浅村らの戦いぶりを見た中村元監督は「超高校級だった中田君が努力する姿を、今の選手は見てきた。(中略)伝統の力を大阪桐蔭は持つチームになった」と評した。1911年創立の報徳学園(兵庫)出身の西谷監督にとって、うれしい、誇らしい、先輩からの言葉だった。中村元監督の言葉が載った紙面を切り抜き、大事にとっていたほどだった。

高嶋前監督とは、春夏甲子園の出場が重なるたび、食事をともにした。組み合わせ抽選会、監督会議を終えたあと、高嶋監督は親交の深い監督や教え子らと会食をするのが習慣。その席に西谷監督も招かれ、ベテラン監督らの甲子園にかける思いに耳を傾けた。中村元監督からのエールも、高嶋前監督らとの語らいも、この日につながっていた。

当代最強、常勝監督と評されても、心の中で幾度も悔し涙を流してきた。05年夏に監督として初めて甲子園の土を踏むまでは、地区予選でPL学園など全国区の強豪に行く手を阻まれた。念願かなった05年夏は平田、辻内崇伸(元巨人)らと快進撃を続けたが、田中将大(楽天)を擁した駒大苫小牧(北海道)に準決勝で屈した。「甲子園で頂点に立つ学校は、大会の中で変わっていく。まだそれが、できなかった。一生懸命に投げてくれた辻内に報いることができなかった」と経験の浅さを痛感。苦い経験を生かしたのが、08年夏の全国制覇。勝ち進むごとにチームはより強く、したたかなチームとなり、決勝で常葉学園菊川(静岡)を17-0と圧倒した。

11年夏の大阪では、2年生の主戦・藤浪晋太郎(メッツ)を擁して決勝へ。東大阪大柏原との決戦では藤浪が相手打線につかまり、最終回のピンチ脱出を託した3年生エースが押し出し死球を与えてサヨナラ負け。「一番残酷な負け方をさせてしまった」と悔やんだ。

その思いを結果で実らせたのが、翌12年の藤浪、森友哉(オリックス)、沢田圭佑(ロッテ)らとの甲子園春夏制覇だ。春1回戦の花巻東(岩手)戦で、4番打者が死球禍で右手首を骨折。いきなり主砲を欠く船出になったが、厚い選手層で埋めていった。春は打線に支えられた藤浪が、夏は準決勝、決勝を完封。大器覚醒で頂点に立った。

プロ候補の選手たちの強さだけではない。14年夏は、香月一也(オリックス)はいたが、中村誠主将を軸とした団結力で優勝。どの世代も、選手の持つ力を引き出し、育てていくのが西谷監督の手腕だ。18年は根尾昂(中日)や藤原恭大(ロッテ)らと2度目の甲子園春夏制覇を果たした。春夏最多8度の優勝を経ての、甲子園最多68勝になった。

 

◆西谷浩一(にしたに・こういち)1969年(昭44)9月12日、兵庫・宝塚市生まれ。報徳学園(兵庫)から関大へ進み、3年時に全日本大学選手権準優勝。4年時は主将。93年から大阪桐蔭コーチを務め、98年11月から監督。いったんコーチに戻り、04年に監督に復帰。08年夏に浅村(西武)らと全国制覇。12年は藤浪(阪神)、森(西武)ら、18年は根尾(中日)、藤原(ロッテ)らと甲子園春夏連覇。春夏8度甲子園で優勝。現役時代は捕手。社会科教諭。

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