<高校野球和歌山大会:箕島10-1南部>◇27日◇決勝◇紀三井寺球場

 「尾藤スマイル」が甲子園に帰ってくる。春夏4度甲子園を制した名将、故・尾藤公監督(享年68)の長男、強監督(43)が率いる箕島が、和歌山大会決勝で南部を下し、夏は29年ぶりとなる甲子園出場を決めた。昨年9月にコーチ、今春から監督に就任した尾藤監督は、試合後の校歌を聞きながら男泣き。父への思いも抱き、甲子園では笑顔で采配を振る。

 29年ぶりの夏の甲子園出場を告げる箕島の校歌に、尾藤監督はたまらず男泣きした。「あの校歌を聞きたくて毎日頑張ってきた。うれしかった」。歌詞の一部「きびしい冬に耐えて来た。われらおのこ(男)の凜烈(りんれつ=寒気の厳しさなどを乗り越える意)の意気」。この言葉が胸に刺さった。昨年9月のコーチ就任から一冬を越えてきたいろんな思いが巡った。ベンチに戻ると、山下拓馬外野手(3年)に「ありがとう、ありがとう」と泣きながら抱きついた。ナインに初めて見せる姿だった。

 父は選手が失敗しても笑顔で迎えた。尾藤監督の「距離感」も同じだ。「29年ぶりと言われますけど、やったのは子どもたちなんで。この大会を通して選手たちの成長や変化を見るのが楽しくて」。選手1人1人をしっかり見て、心をつかむ。練習中も積極的にコミュニケーションを取ってきた。「(監督の)強さんが来てチームが変わりました。みんな自分のことばっかりでバラバラだったけど、チームワークができた」と中西玲人主将(3年)がチームの思いを代弁した。

 「野球は失敗のスポーツ。絶対ミスはする。そこをどうカバーするか」がポリシーだ。2回の先制点は、1死一、三塁から投手の須佐見将馬(3年)がスリーバントスクイズを成功させた。須佐見は「(監督は)ミスしてもけなさないので楽にいける」と難なく決めた。「失敗してもいい。俺がカバーするから」という意識が浸透し支え合うチームになった。

 派手さはない。突き抜けた「個」もいない。父が79年に春夏連覇へ導いたときも同じだった。チームとして育ててきた結果だ。就任1年目ながら人心掌握術に優れる尾藤監督は「僕自身、そういう野球しか習ってないですから」と笑った。父の指揮下で現役時代は果たせなかった甲子園出場がかなった。

 2年前の3月6日。胸騒ぎを覚えた母さとみさんに「病室に残ってあげて」と言われ、父の最期をみとった。その時を思いながらか「『おっきなケガなく終われました。甲子園に行くことになったで、ありがとう』と父には伝えます」と言った。監督就任は遺言ではない。しかし運命に導かれるように、同じ道を歩む。甲子園に数々の名シーンを生み出してきた「尾藤スマイル」がよみがえる。【辻敦子】

 ◆尾藤公(びとう・ただし)1942年(昭17)10月23日、和歌山県有田市生まれ。箕島から近大。66年に箕島監督に就任。68年春に甲子園に初出場し4強。72年に退任も74年秋に復帰。春3度、夏1度甲子園で優勝の強豪に育てた。79年は史上3校目の春夏連覇を達成。夏の3回戦では星稜(石川)と延長18回の名勝負を演じた。95年8月に退任。甲子園通算勝利数は歴代9位の35勝10敗。11年3月にぼうこう移行上皮がんのため68歳で死去。

 ◆尾藤強(びとう・つよし)1969年(昭44)7月30日、和歌山県有田市生まれ。箕島高では投手。和歌山県大会では2年夏決勝、3年夏準決勝で敗退。法大に進学後、長野県のサッシメーカーに就職。96年に結婚し、帰郷。「武内商店」に入社。昨年9月コーチ、今年3月に監督に就任。会社に勤めながら指揮を執る。家族は妻と1男。

 ◆箕島

 1907年(明40)創立の県立校。生徒数743人(女子329人)。野球部は28年創部で、部員数48人、マネジャー8人。甲子園出場は春9回、夏は8度目。春は3回、夏1回全国制覇。79年は春夏優勝。主なOBは東尾修(元西武)。所在地は有田市箕島55。板谷泰収校長。◆Vへの足跡◆

 

 

 2回戦8-0和歌山西・和歌山北3回戦4-1和歌山商準々決勝7-1那賀準決勝8-0和歌山東決勝10-1南部