2010年から2年間、楽天を担当していた。

 1年を終え、コボスタ宮城の近くにアパートを借りてもらうよう、会社に頼んだ。東北で出会った人はみな優しかった。楽天ファンのある夫婦は「外食ばかりだろうから」と弁当を持ってきて、球場前で待ち合わせて、渡してくれた。たとえ1年間でも「腰を据えて取材したい」と思わせてくれた。

 桜前線に沿って、南からゆっくり北上している11年の3月11日だった。兵庫・明石市のオープン戦中に東日本大震災は起こった。仙台に戻ったのは4月7日だった。

 当時、誰もが日々、泣いていた。人間の涙をこんなに目にしたのは初めてだった。先の夫婦もそうだが、久しぶりに会った人はみな、恐ろしさと、失った絆の無念について語って泣いた。本稿で触れた「ヨシさん」こと佐藤義則コーチの涙。廃虚と化した山元町の小学校で「自然が憎い」と涙した星野監督。同じ楽天担当だった古川記者の涙も忘れられない。

 チームが初めて仙台で試合をしたのは、4月29日だった。試合前練習の取材を終え昼食を取ることに。ファンの人波と逆方向に歩いた。気が付くと、隣の古川記者が泣いていた。「みんないい笑顔で。よくここまで戻ったな、と」。11年シーズンで仙台を離れたが、日々は今でも心の中にある。

 大きな地震を経験した。どう解釈していいか、誰もが考えたと思う。「災い転じて-」の先は言えない。軽率と非難されてもいい。地震が起きたからこそ生まれた縁や強い考え方は、我々をグッと前に進める原動力になる。野球には人を紡ぐ力がある。【宮下敬至】

※「野球の国から 2015」<シリーズ9>「3・11が教えてくれた野球の力」取材メモ