歴史的偉業の背景には、いくつもの偶然が存在した。長嶋茂雄に8号本塁打を喫した慶大の林薫投手(79=当時4年)は、もしかしたら新記録のマウンドに立っていなかったかもしれない。

 35年に兵庫県の西脇市で生まれ、神戸高校へ進学。3年時に投手として兵庫県予選に挑むが、後に長嶋、杉浦忠と「立教3羽がらす」と呼ばれた本屋敷錦吾擁する芦屋高校に3回戦で敗れた。この時点で「今後は野球を離れ、勉強に専念しよう」と考えたという。

 第一志望は国公立大学。しかし当時の国公立受験者に課されていた進学適性検査の前日、突然の高熱にうなされた。インフルエンザだった。受験がかなわず、国公立を断念。そこで矛先を私大へと変更した。経済的余裕の少ない下宿生。背水の状況だけに、今度は何としても合格する必要があった。策を練った末に、野球部の推薦を勝ち取ろうと決意。知人のツテを探して当時の慶大監督と連絡を取り、高校3年の12月から大学の高知合宿に参加した。そうして推薦を勝ち取った以上は、大学卒業まで野球を続ける必要があった。

 慶大3年の秋は「絶好調だった」が、4年の6月に交通事故で全治1カ月の重傷を負った。以降は腰痛を抱え、卒業まで思うような投球ができなかった。長嶋に8号を喫したのは4年秋。「仮に絶好調でも打たれていたかもしれないよ」と謙遜するが、万全の状態で対戦していたら結果はどうなっていたか。はたまた林投手が他大に進み、別の投手だったら8号は生まれていたのか。そして直球ではなく、カーブだったら…。歴史の裏側には、いくつもの積み重ねがある。興味は尽きない。【松本岳志】