先輩が打ったボールがグラウンドを飛び出すと、倉敷商野球部1年生はわれ先に茂みへ駆けていった。

 高校野球といえば…星野が真っ先に浮かんだことといえば「水を飲んではいけない」だった。「『おなかの調子が悪いんです』とトイレに行ってがぶ飲みして。慌てて飲むからユニホームがぬれている。戻ると『何でそこだけビショビショなんだ!』と怒られ、ボコボコに殴られる。水を飲むなんて、たるんでる。そんな時代さ」。

 知恵を働かせた。イグサの茂みは深いから、ボール探しに入ってしまえばグラウンドからは見えない。一升瓶の中に水を入れて、早朝のうちに隠しておいた。「魔法瓶なんて誰も持ってないからな。ストローを差して仕込んでおく」。湿地帯のあちこちに、ストローの飛び出した一升瓶が埋まっていた。先輩のファウルが飛ぶと「オレの番だ」と一升瓶を目指した。

 瀬戸内の強い日差しにさらされた水は、練習のころにはすっかりお湯になっていた。「お湯なら、まだいいんだ。我慢できなかった誰かが、オレの分まで飲んでしまっている時は最悪だ。全部飲んで、みんな空っぽになっている…」。もう最後の手段しかない。身をかがめて、イグサをのけて、泥水に目いっぱい顔を近づけ、思い切り息を吹いた。

 「ボウフラがたくさん浮いてるんだよな。それをフワ~ッと吹き飛ばして、一気に、飲む。ボウフラって、いっぱい雑菌が付いてるはずなんだよな。それでも飲む。免疫ができて体が強くなる。今の子なら絶対に体を壊すと思うよ」

 水を飲めない。ケツバット。いいとは思わない。ただ、理不尽から“要領”を学んだことだけは間違いない。

 「『今日はケツバットが来るぞ』と思ったら、あらかじめスライディングパンツを2枚はいて、タオルも入れて。最小限のダメージで、どう逃げていくか。そういう厳しい中で、自然と要領を覚えていく」

 当時、全国の球児が避けて通れなかったであろう道を、星野もまた、たくましく歩んでいた。野球部の日々に慣れてきた1962年(昭37)の6月6日、岡山東商との定期戦で実戦デビューを果たした。7回を投げ被安打1、自責なし。硬球を握って3カ月も、連日200球の投げ込みで感覚をつかんでいた。水島の「仙坊」は、どんどん存在感を増していった。(敬称略=つづく)

【宮下敬至】