日本ハムは2018年で北海道移転15年。過去の名場面、珍場面を、当時の紙面とともに振り返ります。

<07年10月4日付>

主砲で主将。いまやチームの顔である中田のプロ野球人生スタートの場所は、なんと…茶室だった。日本ハムからドラフト1位指名された日、中田は意外にもお茶を立てていた。大阪桐蔭は運動部と文化系部活の両方に在籍できるため、野球部兼茶道部という経歴を持っているのだ。阪神、ソフトバンク、オリックスと日本ハム。4球団が競合の末、当時の藤井球団社長が当たりくじを引き当てた。

「やるからにはベストを尽くす。新人王をとりたい。本塁打は20本以上打たないとダメでしょうね」

ケガもあって言葉通りの活躍とはならなかった。新人王は獲得できなかったが、2年目の09年にイースタン・リーグで30本塁打、95打点で2冠。10年から1軍に定着し、これまで打点王を2度獲得した。

歯に衣(きぬ)着せぬ発言や“珍発言”でもファンを笑わせ、愛される「大将」だが、まだ高校生だったこのときから、キャラクターは何も変わっていない。会見場で北海道の印象を問われると「白い恋人!」と即答。「僕、1人で北海道に行けるかなあ。広島までちゃんと帰れないんですよ」と笑わせ、2軍本拠地が北海道ではないことを聞くと「ホンマっすか…。千葉っすか…」と絶句した。

このときは背番号「22」を希望した。だが当時、「22」はセットアッパーの建山(現侍ジャパン投手コーチ)がつけていたため、後日、前年にミスターファイターズ田中幸が引退し空き番号になっていた「6」に決まった。ちなみに12年に行われた侍ジャパンの「東日本大震災復興支援ベースボールマッチ」に出場した際は、念願の(?)背番号「22」をつけた(その後、代表では「13」に定着)。