元阪神投手コーチで藤川がブレークするきっかけを作った山口高志氏(70=関大野球部アドバイザリースタッフ)が教え子の引退試合に「観戦記」を寄せた。絶対的な守護神として、大苦戦した巨人戦で中継ぎ登板を志願するなど執念を燃やした秘話を明かした。阪急で現役時に日本最速と称された伝説の剛腕がプロ22年間の現役を駆け抜けた男にねぎらいの言葉を贈った。

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球筋は見ていない。アイツの姿ばかり見ていたよ。躍動感があってね。復帰して初めて全力で、体に残していた闘争心を全部出したんじゃないか。本当に野球をやってよかった幸せを感じて投げていただろう。久しぶりに12球という少ない球数。私はいま、関大で指導している。甲子園に行くのも照れくさい。この日も何とか練習後、間に合って自宅のテレビで見たんだ。

8月末に引退発表後も登板をテレビで見ていたが、やっと楽しそうに投げていると感じた。米国から帰ってきて「もうお前1人で全部、背負うのじゃなく、自分のために投げたらいい」と言ったことがある。でも、球児はそうしなかった。「もう1回、タイガースで優勝して幕を引きたい」。そんな思いが強かったのだろう。

勝利への執着心で印象に残っていることがある。私は09年から1軍投手コーチを務めたが、巨人戦でどれだけやっても東京ドームで勝てないとき、球児が「途中でもいいから投げさせてください」と直訴してきた。負けていたらクローザーは出番が回ってこない。球児に守護神を任せるチーム方針だったから中継ぎ起用は実現しなかったが、チームに貢献したい、勝ちたい気持ちの強さが出ていた。

球児とは密着した師弟関係ではない。彼の分岐点にたまたま私がいただけだ。初めて接したのは03年。阪神の2軍投手コーチとして久しぶりにユニホームを着た。最初に指導者になったのは阪急時代の83年、32歳だった。教えすぎて失敗した。だから阪神では選手の「鏡」になろうと思っていた。ケガがなければ家を建てるまでいかなくても、10年くらいプロでやれるだろうという第一印象だった。

ブレークのきっかけになった「右膝を折るな」という助言は球児だけでなく、全員を見るときの視点だ。最初は低めに投げようとして体が沈み込み、右膝も曲がっていた。角度がなく、打者はとらえやすい。右膝を伸ばして上からたたくように投げたらどうだと。「高めに投げても大丈夫」とも言った。想像以上、はるかに大きな結果を残した。

大リーグ挑戦前のアイツに否定されたことがある。私も78年に最優秀救援投手のタイトルを取った。「抑えは1球で負けることがある。人の勝ち星、チームの勝ち星を消してしまう。野手に信頼されるよう、練習をしっかりやる姿を見せないかん」。経験談を球児にした。アイツは「大丈夫です。ボールで表現しますから」と言ってきた。圧倒的な成績で信頼を得ていた。「すごい選手になったな」と感慨深かったものだ。

よく「球児は品のある球で、俺は品のない球」だと言っていた。一般的に剛速球というが「剛」は強さを表す。速さ、キレをイメージするのが球児の本質だろう。ピンと膝が伸びた立ち方から、右足を蹴り上げるところまで、ちょっと人にはマネできない、球児にしか表現できない躍動感がある。球児よ、本当に長い間、お疲れさま。ワクワクさせてもらってありがとう。

◆山口高志(やまぐち・たかし)1950年(昭25)5月15日、兵庫県生まれ。市立神港、関大、松下電器をへて74年ドラフト1位で阪急(現オリックス)入団。75年新人王。78年に最優秀救援投手賞。82年引退。通算50勝43敗44セーブ。同氏によれば自己最速は154キロ。阪急、オリックスで投手コーチをへて03年から阪神2軍投手コーチ、スカウトを務め、09年から15年まで同1軍投手コーチ。16年から関大野球部アドバイザリースタッフ。171センチ、80キロ。右投げ右打ち。