日刊スポーツでは大型連載「監督」をスタートします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。今回初めて本人が好んだ自室が明かされました。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。
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星野仙一氏はリーダーの条件は「情」であると語った。本人が好んだ自室を訪ねると、その端緒を少年時代に知ることができた。苦難のバックボーンの中、輪郭を現した「情」は太く、熱を帯びていた。
“星野の部屋”で向き合ったのは、長姉の(米谷)美和子だ。焦げ茶色した革のソファに座ったその人は「なんだか落ち着きませんね」と笑みを浮かべて最愛の弟、仙一を語りだした。
「母は四国などに行商に出ると1週間ぐらいは帰ってこなくなったんです。今は子供3人を置いて家を空けるのは考えられませんが、そうしないと食べられなかったんだと思います。でも母は仙くんとか、仙ちゃんとか言って、仙一には甘かった。叱られたことがなかったと思います」
1947年(昭22)1月22日に星野が生まれる前年10月、三菱重工水島の工場長だった父仙蔵が病死。それまで社宅でそれなりの暮らしをしていたが生活は苦しくなった。
最後はもろぶた、トロ箱、げた箱まで売り食いしてつないだ。母敏子が行商に出るようになった。7歳下の弟を育てたのが美和子だ。
「家に助産師さんが来られて母から生まれた時はうれしかったです。母の留守中は、わたしがおんぶをするのですが、ピーピー泣くし、おしっこはするし、何度も蹴飛ばしたり、たたいたりしました。それと母のお土産はいつも決まって1冊の絵本でした。幼心にパンの1つでも欲しかったのですが、今振り返ると大切なことだったんだなと思います」
美和子が「仙一は正義感が強く、わたしと一緒で白黒はっきりした子です」と明かしたのは、少年星野が通った大福田小時代でのことだ。筋肉が痩せていく病を患った同級生を毎日おんぶして小学校に通った。
「いつも早く家を出て行きましたね。定金君といって牛乳屋の息子さんで、仙一は勉強が終わってから野球をするので、それが終わるまで近くにじっと座って待った。高学年になると教室が2階に上がりますが、トイレは1階にしかない。仙一は『我慢せんでええからいつでも言え』とおんぶして下りるんです。おばちゃん(定金氏の母)に『みんなで代わる代わるやるから一緒に修学旅行に行こうや』と誘ってました。プロ入りから星野君の姿をテレビで見るのが何よりの楽しみと話してたようですね」
美和子は短大卒業後、地元で私立の慈愛幼稚園に10年間就職した。倉敷商から明大に進んだ星野に仕送りを続ける。
「当時のわたしのお給料は6000~7000円ぐらいです。ピアノがちょっとできたので家庭教師もしました。そこから送れるのは1000円ぐらいでしたが、仙一がとんでもないこと言うんです」
幼稚園の園長から前借りすることもあった仕送り金を受け取った星野はこう言った。
「姉さん、今のうちに俺に投資しとけ。そのうちにな、海の上にプール付きでガラス張りの家を建ててやるからな」
当時は大放言でも、海の上のプールとはいかないが、名監督までにのし上がった。貧しくても星野は「夢」という言葉が大好きだった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)
◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。