日刊スポーツでは大型連載「監督」をスタートします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。今回初めて本人が好んだ自室が明かされました。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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父仙蔵の顔を知らず、母子家庭の女手で育てられた星野にとって、母敏子の存在は絶対だった。姉の美和子は「母からは貧しいことはちっとも恥ずかしいことじゃないと教えられて過ごしました」という。

「当時の写真を見ているとはだしの子もいます。ご飯も麦ご飯で、それに塩かけて、白湯をかけて食べた。お弁当もおかずがなく、麦ご飯に梅干しが1つあるだけでした。でもちっとも苦にならなかったです。母が惜しみなく尽くす人でしたから」

後に幼稚園教諭に就いた美和子だが、音楽教育に必須のピアノがなかった。すると敏子は自宅を売り払ってピアノを買い与えた。

「母は仙一にはどんぶりメシに山芋をすって、卵をポンと落として、きざみのりをかけてだしました。当時は十分に卵なんて食べられない時代で、姉妹は1年に1、2回だったのですが、仙一には毎日、毎日だったんですよ」

美和子は公立幼稚園園長、新規採用教員指導員も務めた教育者で、親と子の養育に厳しい視点をもつ。弟に注がれた母の愛情はプロ入り後の行動にも表れた。

「母に『これからナイターなのに着替えるの?』というと『仙一が戦ってるのにこんなかっこうでは応援できない』って。だからわざわざ着替えて、テレビの前で正座して見るんです。口数の少ない母で、仙一を叱ったことがないから、あんなふうになったんですよ(笑い)」

親分肌で人を引きつけた星野の才能はすでに高校時代に培われた。

「小さい頃からケンカが強かったけど弱い者いじめだけはしませんでした。倉敷商は振り込みじゃないので月謝をもたせるんです。でも学校から2カ月も未払いだと催促の電話がきたと思ったら、高校から帰る途中のお好み焼き屋に寄って仲間の全員ににおごってしまうんですよ。結局、わたしが高校に支払いにいきました」

阪神監督としてリーグ優勝を決めたのは03年9月15日。その2日前の13日に母敏子が天寿を全うした。91歳だった。

「星野の名前をだすと大変なことになると思ったので、わたしの名前(米谷)で一番小さな部屋を借りて家族葬にしたのです。神宮、名古屋で負けた仙一は夜中に斎場にきました。棺(ひつぎ)の前で1時間ぐらい座って泣いてましてね。そして、わたしと妹がいる後ろを振り返って『姉さん、おふくろはきれいやな』と…」

星野はずっと泣きっ放しだった。やっと斎場を去ろうとした時、次姉の須恵子がグイッと弟の二の腕をつかんだ。

「もう仙一はヨレヨレでした。そして、わたしが声をだしたんです。『仙一っ、親が死んだぐらいでオタオタしなさんな!』と。仙一はほんと悲しそうな顔で『姉さんら2人は強いなぁ』というから、わたしが『DNAは一緒よ!』と言い返したんです。監督になってベンチを蹴ったり、扇風機を壊したりしたのは育ちですかね」

監督として「優しさ」と「厳しさ」を兼ね備えたルーツは生い立ちにあった。最愛の母の亡きがらにしがみつき、心のなかで別れを告げた一夜明け、星野は甲子園の空に舞うのだった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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