<アシックス代表取締役会長CEO 尾山基氏(上)>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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星野氏の後援組織「夢の会」会長だったアシックス代表取締役会長CEOの尾山基氏(69)は、鉄拳で知られた星野野球を「データ野球」と意外な見方をした。スポーツメーカーのトップは「浪花節だけではスポーツの一流の世界では勝てない。勝ち続けるにはデータが必要だった」と分析した。

星野をバックアップした経済界トップの1人に、日本一のスポーツメーカー、アシックス代表取締役会長CEOの尾山がいる。

星野が他界する前年の17年11月28日に東京、12月1日は大阪で「野球殿堂入りを祝う会」が開催された。いずれも発起人だった尾山は付き合いが深かった。

「パーティーの時、お尻が小さくなったし、会場からそっといなくなって、裏で休んでいると聞いた時、おかしいなと思っていました。荼毘(だび)に付すとき、うちの上下白のジャージーに着替えて送り出されたとうかがいました。がっくりきました。つらいですよ」

星野との縁は創業者で義父の鬼塚喜八郎から受け継いだ。鬼塚は星野が阪神監督に就任した02年、吉本興業社長だった林裕章らと後援会組織「夢の会」を立ち上げた。尾山は09年に同会会長に就いた。カリスマ経営者の鬼塚からは、星野について「普通の野球人じゃない。深みと重みがある」と諭されていたという。

「とにかくさまざまな人脈でつながっていましたよね。だって日銀総裁の福井(俊彦)さん、三井住友銀行の西川(善文)さん、奥(正之)さんら歴代頭取とさしで話すというし、昔でいう男芸者ではないですよね。修羅場をくぐってるから右往左往しない、ドスが利いてる。いろんな顔があったと思いますよ」

アシックスは戦後のまだ混乱期にあった1949年(昭24)に創業した。社員4人で起業した会社は、オイルショック、3社合併、バブル崩壊、リーマン・ショック、海外市場の拡大、阪神淡路大震災といった数々の難局を乗り越え、グローバルブランド企業で「世界のアシックス」に成長していく。

尾山は「逆境に強い男だったと思います」といった。「鉄拳」のイメージが強い星野野球だが、尾山の視点は意外だった。

「ぼくはデータ野球だったと思いますね。(詳細は)表に出なかっただけでしょう。浪花節だけではスポーツの一流の世界では勝てない。気合だけでは勝てない。また勝ち続けるにはデータが必須です」

アシックスがスポーツ工学研究所(神戸市西区)で取り組むデータ収集・分析に基づく商品開発は、アスリートの世界で高く評価されている。石川県立金沢泉丘高校時代からバスケットボールを志してきた尾山は裏付けた。

「今ではバスケットボール、バレーボールもデータ管理をやってますが、野球も同じだと思いますね。技術があってもデータがないと勝てません。それが結果につながってモチベーションが上がっていくんです」

星野は喜怒哀楽をストレートに出すタイプのリーダーだった。尾山は「監督として頭の中にコンピューターがあったのは間違いないが、それだけだと唯我独尊になるから、客観的データがいるんです」と持論を展開した。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆尾山基(おやま・もとい)1951年(昭26)2月2日、石川県生まれ。69歳。74年に大阪市立大学商学部卒業後、日商岩井を経て、82年アシックス入社。アシックスヨーロッパB.V.代表取締役社長、取締役マーケティング統括部長などを経て、08年代表取締役社長、17年代表取締役会長兼社長CEO、18年より現職。

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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