日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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かつて軍港として栄えた広島・呉の町が、名将鶴岡の生誕の地だった。“親分”と異名を取った男の野球人生が凝縮された1枚の色紙に出会った。

「宿願」-。1959年(昭34)の日本シリーズで巨人を下した鶴岡が、試合直後にしたためた。それまで4度も巨人にはねつけられた積年の夢がかなった瞬間の心境だ。

南海のキャンプ地の呉市二河(にこう)野球場は「鶴岡一人記念球場」に変わった。地元の大之木建設がネーミングライツ(命名権)を5年契約で取得したが、広告宣伝の趣旨とは裏腹に企業名を付けないのは異例だった。

同社代表取締役会長の大之木雄次郎(75)は「うちと鶴岡さんは家族ぐるみの付き合い。感謝と恩返しのつもりです」と語った。父親の一雄が鶴岡と同じ1916年(大正5)の早生まれで、広島商では1学年上だった。

鶴岡と一雄の2人は毎朝、呉から広島まで通学を共にした。夏は呉駅を午前5時27分発、冬は6時27分発の列車に揺られて青春時代を過ごした仲だ。

代々続いた縁で、銅像を建立した球場に隣接する「鶴岡一人記念スポーツ会館」の展示室も一新。大之木がトロフィーなどと一緒に所有した秘蔵の書がそこに飾られたのだ。

“親分”は選手たちに「グラウンドにゼニが落ちてる」とゲキを飛ばした。実に11度のリーグ制覇も、初めて巨人に勝った59年の日本一は特別だった。杉浦忠が4連投4連勝で奇跡を起こし、広瀬叔功が、野村克也が活躍した。

“情の人”と評される一方で球界初の専属スコラーを採用し、緻密な野球も展開。「400フィート打線」「100万ドルの内野陣」と名のつく戦法で攻守に柔軟性もみせた。

PL学園、法大で監督を務めた長男の山本(旧姓鶴岡)泰は「おやじは『巨人は銀座でブランデー、うちは道頓堀の赤ちょうちん。勝てるときに勝たなあかん。だからスギ(杉浦)にいってもらった』と話してました」と勝負師としての心得を説かれていた。

山本は今回の取材を続けていた昨年8月11日に腹部大動脈瘤(りゅう)破裂で急逝した。長時間に及んだ取材では、父親、リーダーとしての鶴岡をさまざまな視点で語っている。非常に興味深いのは野村克也との確執の真相だ。1977年(昭52)オフ、南海監督だった野村が解任された際の会見で「(元監督の)鶴岡元老の圧力で吹き飛ばされた」と発言した。

精神主義を重んじながら南海の黄金期を築いた鶴岡と、「考える野球」をうたって“親分”を批判する教え子の野村の2人は急速に疎遠になっていった。

しかし、鶴岡の長男泰は一連の取材の中で、野村夫人でサッチーこと沙知代から打ち明けられた衝撃的な一言が忘れられないと語っている。

「ハワイで会った沙知代さんから『うちの主人は鶴岡さんに足を向けて寝たことはございません。よろしくお伝えください』と言われたんですよ」

当時のいきさつを知る関係者が続々と意外な事実を語り始めた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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