日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

     ◇   ◇   ◇

プロ野球界にとって1959年(昭34)は、大きな転換点だった。6月25日の後楽園球場で昭和天皇と皇后が巨人-阪神戦を観戦された。史上初の天覧試合でプロ野球は国民的娯楽として認められていく。

その年の南海は4年ぶり7度目のリーグ制覇。58年までは「野武士軍団」の西鉄を率いた三原脩に3年連続で優勝をさらわれた。それまで4度とも敗れた巨人を倒すのは、“親分”の悲願だった。

南海の梶田睦(88)は2軍マネジャーだったが、チームに同行した。父親弥三郎、母親ふさのに育てられ、甲子園に連れていかれてから野球のとりこになった。住吉商(大阪)から外野手で南海入り。1軍での出場機会はない。

梶田は「親分と出会ってなければプロに入っていない」という。正義感が強く、生真面目で、後にダイエーホークス取締役編成本部長も務めたホークスの“生き証人”でもある。

「鶴岡さんは新しいことに取り組むのが早かったですね。今でいうメジャー流というんですかね。頻繁にファームから選手を上げてきたり、マスコミにいた尾張さんをスコアラーにして戦ったんです」

鶴岡は日本プロ野球で初めて「スコアラー制」を新設した。54年に毎日新聞の記者だった尾張久次をチーム専属のスコアラーに招いた。打球の性質、方向などのデータ収集を試合に生かした。

「鶴岡さんはミーティングで全員の前に立って話をして選手たちにメモを取らせました」

南海は10月24日から本拠の大阪球場で幕を開けた巨人との日本シリーズに連勝した。今では当たり前だが、鶴岡の近代野球につながる“データ野球”は、後楽園に舞台を移した第3戦に集約された。

9回裏、同点に追いつかれ、なおも1死二、三塁。代打森祇晶の左中間ライナーを中堅手の大沢啓二が好捕、タッチアップを狙った広岡達朗を本塁で刺した。南海ベンチがとった大沢を大胆に左に寄せるシフトは、尾張からの情報だった。

セカンドを守ったのは岡本伊三美(元近鉄球団代表、同監督)だ。2月26日に卒寿(90歳)を迎えるかつての名手はかくしゃくと取材に反応した。

「尾張さんのメモは(投手、打者、走者らの)クセではなくデータだった。杉浦に対した打者の打球はこっちに飛んでくるとか、稲尾がわたしに対してどう攻めてきたかとかね。親分はこれは役に立つぞとやりだしたんでしょうな。尾張メモはいつもベンチの椅子の上に置いてあった」

土壇場のピンチを切り抜けた南海は、延長10回表に寺田陽介が適時打を放って逃げ切った。岡本は「後でデータを生かした鶴岡さんの野球をもって戦ったのがノム(野村克也)ちゃうか」と笑った。

巨人と5度目の日本シリーズに3連勝で王手をかけた。エース杉浦忠が3連投で宿敵を封じ込んだ。だが女房役の野村は異変を感じ取っていた。杉浦がおかしい…。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

連載「監督」まとめはこちら>>