虎の“元祖鉄人”が逝った。阪神の名三塁手として鳴らし、700試合連続フルイニング出場を果たした三宅秀史(みやけ・ひでし)さんが3日、心不全のため三重県内の病院で死去した。86歳。岡山県出身。5日に家族葬を行い、阪神球団が発表した。三宅さんと吉田義男氏(87=日刊スポーツ客員評論家)が組んだ三遊間は、プロ野球史上最高コンビと語り継がれる。吉田氏が盟友を悼んだ。

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わたしにとって三宅は“戦友”でした。同じ年に阪神のユニホームに袖を通し、同じ釜の飯を食べた。彼は三塁、わたしはショートで三遊間コンビを組んだ間柄。かけがえのない同志を失ったことは痛恨の極みです。

プロ入り当初、監督だった松木(謙治郎)さんの明大の後輩にあたる岡田(源三郎)コーチから激しいノックを浴びせられて鍛えられました。二塁を守ったのは鎌田(実)。お互いが競い合い、技を磨き、励まし合った時代でした。

三塁では長嶋君(巨人)に匹敵し、勝るとも劣らない守備をみせた。ものすごくオーソドックスなタイプの三塁手です。派手さがないという意味ではありません。球さばきが巧みで、強肩で、玄人好みの、とても堅い守りでした。

特に三宅は三遊間寄りの打球に強い。わたしはどちらかというと、逆にセンターに抜けそうな当たりを処理するのが得意なほうだったので、お互いがカバーし息が合った。我々は阪神と、甲子園の伝統のもとで育ったのです。

1959年(昭34)6月25日、後楽園球場で天皇皇后両陛下ご臨席の「天覧試合」で巨人と戦った一戦は思い出深いです。東の巨人を負かすことが、タテジマに生きた男たちの宿命。プロ野球が大相撲に並ぶ国技として認められる時代の先駆けでした。

また、わたしがフランスナショナルチーム監督に就任すると、わざわざパリに飛んできてくれた。小さなアパートに住み込んで、マルシェで買った魚をさばき、煮付けにしてふるまってくれました。料理も、指導も手抜きをしないのは、三宅らしかった。

昨年10月、病気療養中なのにわざわざ自宅近くの三重・白子(しろこ)まで出てきてくれて、一緒にすしをつまみながら語り合った。帰り際に「元気だせよ」といったら、三宅は涙を流した。それが別れの瞬間でした。思い出は尽きません。心から哀悼の意を表します。ありがとう三宅、さらば三宅…。(日刊スポーツ客員評論家)

 

◆三宅秀史(みやけ・ひでし) 1934年(昭9)4月5日生まれ、岡山県出身。内野手。66~67年の登録名は「伸和」。南海高から53年に阪神入団。吉田義男と三遊間を組み、名守備で知られた。700試合連続フルイニング出場はプロ野球3位。62年9月6日の試合前にキャッチボールの球を左目に受けて視力が下がり、記録は途絶えた。57年には三塁手としてセ・リーグのベストナイン。現役時代は176センチ、70キロ、右投げ右打ち。オールスター出場4回。68年から71年まで阪神コーチ。