日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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勝負に対する執念を象徴したのは、あの事件だった。1978年(昭53)阪急は圧倒的強さでパ・リーグ初の4連覇を遂げた。10月22日。3勝3敗で迎えた後楽園のヤクルトとの日本シリーズ第7戦だった。

0-1の6回、大杉勝男の打球が左翼ポール際に飛び込んだ。線審の富沢宏哉が本塁打のジェスチャーをすると、レフトの簔田浩二が猛抗議し、上田は脱兎(だっと)のごとく三塁側ベンチを飛び出した。

ホームランか、ファウルか--。判定を不服とした上田は左翼ポール下で富沢につかみかからんばかりだった。全員をベンチに引き揚げさせ、審判団が監督をなだめても怒りは収まらない。

バックネット前でマイクを握った富沢が「阪急上田監督から抗議がありました。完全に」と説明した瞬間、上田は「抗議の内容を言えよ!」と遮った。その後「ポールの上を通過したホームランでございます」といった声はかき消された。

西鉄ライオンズで新人王に輝いた豊田泰光とテレビ解説していたのは、南海ホークス名二塁手だった岡本伊三美。御年90歳。阪神コーチ、近鉄代表、監督など歴任した岡本は、ネット裏から見た生き証人だ。

「もう少しポールが上に伸びていればよかったんだが放送席からは分からなかった。線審は上を見上げたようだったが、そのとき左右を間違えたのかなとも思ったけど…。打ったもん(大杉)が一番分かっている。後で上田君に会ったときも『岡本さん、あれはホームランじゃありません』と話してたね」

当時、日刊スポーツで阪急の番記者だった曽我部史朗は、現場デスクだった藤光怜紀の指示でスタンド取材に走った証言者だった。

「打球はバウンドして父親と一緒にいた子供の左足ふくらはぎのあたりに当たってた。その親子は阪急ファンではなかった。その位置からしてファウルだと思ったね。辺りの人もポールは巻いてないといった。新聞記者がベンチ裏まで入れた時代で、そこまで戻って上田監督に伝えたら『そやろ!』としたり顔になったんだ」

本紙取材は“火に油”だった。激しい抗議は延々と続いた。大杉に対した足立光宏はベンチを出て肩慣らしを始めたが再び引っ込んだ。「失投? ファウルやから失投じゃない」。若手だった山口高志は「先輩が腹が減ったというから食堂にサンドイッチを買いに行った」という。

上田は線審の交代を主張したが受け入れられず。球団社長の渓間秀典(たにま・しゅうてん)が試合再開を促し、コミッショナーの金子鋭が出てきて説得する異例の事態に陥った。シリーズ最長1時間19分の中断。その後も加点されて敗退し、4年連続日本一の夢を絶たれた。

今回、複数の審判OBにも取材を申し込んだが回答を得ることはできなかった。試合後の上田は辞任を表明。プロ野球史に残る猛抗議だけがクローズアップされるが、実は日本一を逃した敗因はこの一戦ではなかった…。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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