日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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ヤクルトとの日本シリーズ第7戦は、上田が1時間19分の激しい抗議にでたが判定が覆らなかった。東京・水道橋の宿舎に戻った上田は引責辞任を表明した。

シリーズ最終戦に0-4で敗れたが、ポイントは阪急が2勝1敗で迎えた第4戦(西宮)。先発に今井雄太郎を立て、8回を終えて5-4だった。

9回2死一塁、上田はベンチから今井のもとに向かった。ブルペンではすでに投球練習を終えた山田久志が準備万全でリリーフカーに乗り込んでいた。

上田がマウンドにいくと内野手のだれからともなく声が掛かった。「あと1人ですから雄ちゃんに任せてあげてください」。山田にスイッチするつもりだった上田が折れた。

監督がベンチに戻った直後、今井がデーブ・ヒルトンに逆転2ランを浴びた。山田を抑えにつぎ込めなかった上田の継投ミスによって5-6で競り負けた。

足立光宏は「山田をとっておきたかったのかもしれない。でも野手が今井を投げさせてほしいといったのが事実なら野手の慢心だろう。こちらから流れを変えてしまった」という。

上田は遠征先で毎朝のジョギングが日課だった。大熊忠義は「雨の日は傘を差しながら走ってました」という。自らにも厳しかった男が“ここ”というところで非情になれなかった。

王手をかければ、チームの勢いは加速し、残り3戦を優位に戦うことができた。一瞬の判断が鈍って短期決戦の落とし穴にはまったことで形勢は変わった。

上田は夏場に体調を崩して休養していた。1974年(昭49)の監督就任以来、5シーズンでリーグ優勝4回、日本一3回。監督は梶本隆夫に交代。だが充電に入って2年後の80年には身辺が騒がしくなった。

78年西武グループの国土計画が福岡のクラウンライターライオンズを買収、埼玉・所沢に移転。根本陸夫が指揮をとっていた西武から監督要請を受け、中日からも打診された。

日刊スポーツで阪急の番記者だった井坂善行は上田宅で本人を直撃した。「西武か中日かを聞きにいったのに、上さんは『東でも、西でもない』という。なぜ時間がかかってるんだろう? と疑問に思った」。

阪急の話は表面化していなかったが、同じ番記者の永井八太郎は、阪急オーナーの森薫の自宅に上がり込んだ。永井は森が電話口で「それで上田君は承諾したのか?」と問いただしているのを聞き逃さなかった。

日刊スポーツ紙上には上田の「阪急監督 電撃復帰」が掲載された。上田は西武オーナーの堤義明に直接断りを入れた。80年代の西武は監督に広岡達朗、森祇晶を起用し、黄金時代を築いていく。

上田は阪神球団社長の小津正次郎とも会食を重ねた。それらを固辞して阪急オーナー代行の山口興一から招請された監督を受諾する。水面下で動いたのは敏腕フロントマンの矢形勝洋だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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