まさに「卒業式」だった。17年12月、札幌ドームで行われた大谷翔平の日本ハム退団会見。「ここで教えられたことを向こう(米国)でやりたい。継続して。一緒にやってきた人の思いを持って、一生懸命頑張りたい」。栗山〝先生〟へ真新しいエンゼルスのユニホームをプレゼントし、マウンドから日本での最後の1投を投じた。5年間の「二刀流養成プログラム」を履修終了した節目だった。

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当初は否定的な意見に支配された「二刀流」が成功したのは、何よりも大谷本人の「才能」と「努力」による。入団時からずばぬけていた打撃センスと打球飛距離。粗削りながら160㌔を超え、ポテンシャルを秘めた投球。日本ハムのスカウト会議では「どちらかに決めてしまうのはもったいない」の声で一致。「二刀流」を提案することになる発端は、投打ともに能力が桁違いだったからだ。

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そこに積み上がる努力。大谷は日本ハムのときから、とにかくよく練習した。ある年の12月24日。ひとり黙々と汗を流す大谷の姿を関係者がこっそりと撮影し、その動画を受け取った栗山監督が「最高のクリスマスプレゼントだ」と喜んだのは有名な話。特徴的なのは、ひとりで黙々と練習すること。コーチの目、ファンの目、マスコミの目…、自主トレは他人の目がある方が頑張れそうなものだが、大谷は逆。番記者として追い掛けた私も、「練習は見ていて欲しくないんです」と何度も邪見にされ困った。

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最高の練習環境をつくるために、球団は徹底的にサポートした。栗山監督はまだ若かった大谷に外出制限、事前報告義務を課した。一見、規制で縛っているように映るが、本意は別のところにある。プロ野球選手ともなれば、OBや球界関係者だけではなく、さまざまな業界の方から食事に誘われることが多くなる。だが大谷を〝誘い出す〟と球団に報告がいくとなれば、そう簡単には誘えなくなる。現に、1、2年目の大谷は、チームメートとの食事以外で外出することはほとんどなかった。「縛って」いるように見えて「守って」いたのだ。

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栗山監督、各コーチ、トレーナーらの徹底的な管理のもと、大きなケガもなく「二刀流」は熟成されていった。2年目には11勝&10本塁打で、ベーブ・ルース以来となる「2桁勝利&2桁本塁打」を達成。3年目には最優秀防御率、最多勝利など投手3冠。4年目は10勝&22本塁打でチームの日本一に貢献した。

体のコンディションを日々確認し、投手出場と打者出場のサイクルを作り上げたが、起用法に変化が生まれたのが、17年のシーズン途中。指揮官は、登板から中何日で打者出場するかなどを、大谷本人の意見で決めるようになった。「いまはこっち(首脳陣)が(無理な出場を)止めることができるけど、向こう(メジャー)に行ったら、全部自分でやらなければいけない」。後日、栗山監督はそう明かした。「二刀流養成プログラム」が最終試験に入ったことを意味していた。

日本での最終戦となった17年10月4日は、「4番投手」で完封勝利。1カ月後、メジャー挑戦を表明した。「(世界で)1番の選手になりたい」と夢を語り、海を渡って4年。その目標に、一歩ずつ近づいている。【本間翼】

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