日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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1969年(昭44)、広岡達朗は広島で指揮を執った根本陸夫から守備コーチの要請を受ける。1度は断りを入れたが、強い説得に折れた。

「広島はよくしつけの行き届いたチームだと思いましたね。合宿所に入るとすぐに衣笠(祥雄)があいさつにきたし、野球に対して一生懸命に取り組んでいました」

68年ドラフトで東京6大学のスター、法大外野手だった山本浩二が入団した。根本から三塁手の西本明和、外野手の井上弘昭、外野から内野に転向した苑田聡彦の育成を要求される。

現在、広島スカウト統括部長の苑田は、正遊撃手になった経緯を「野球の基本は一から十までを広岡さんに教わりました」という。

「厳しかったです。キャッチボールからですからね。よく胸にめがけて投げろというが、今の選手は片手で捕球するじゃないですか。でも片手で捕るのはロスが生まれるから、両手のほうが投げやすくなる。うちで両手で捕球するのは田中広輔ぐらいですが、その瞬間にちょっとだけ右腰を入れるのが、すぐに投げる動作に入りやすいんです」

広岡は上達しない苑田の指導にいったんはさじを投げた。外野に戻したほうがいいと進言したが、根本から「おれが責任をとるから辛抱して教えてくれ」と頼まれて折れた。粘り強い指導のかいあって、苑田の守備力はレベルアップし、定位置に固定されるまでに成長する。

「広岡さんは強いノックはしなかった。強い打球は体が逃げるといった。また逃げるというのは基本ができていない証拠だと。正面に20本打つと、次は右、左…、ずーっと緩い打球のノックで練習が続きました。それに自ら手本を示すのですが、それが実にうまいんですよ」

広岡はヤクルトで監督(76~79年)に就いた際も、苑田をレギュラーに仕立てたのと同じように人材を見いだしている。71年ドラフト9位の水谷新太郎を遊撃手としてレギュラーに育てながら、チームを優勝に導いた。

「苑田は1年半、水谷は3年かかりました。でも指導するほうが選手をやる気にさせて、正しい教育を根気強く続ければ、人は必ず育つ。わたしはそれを選手から気づかされ、教えられたのです」

苑田は75年の球団初優勝にも貢献。スカウティングでは江藤智、金本知憲、黒田博樹ら、広島を代表する選手に育った多数のドラフトにかかわってきた。

「それと広岡さんはアウトにしただけではダメなんです。ボールを投げたら一塁手のミットに入るまで気持ちが入ってないと『なんだ、そのプレーは!』と叱られました。それまで捕ってアウトにすればいいと思っていたが『気がこもったプレーをしなさい』と指導されました。今の立場になっても、わたしは同じ考えをもって選手をみています」

人材を見極め、生え抜きを一人前に育て上げるのはチーム作りの理想といえる。広島時代のコーチ業は指導者として成功する源流になった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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