日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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1978年(昭53)のセ・リーグは、5月中旬まで巨人と大洋(現DeNA)の2強で、広岡が率いるヤクルトが追った。首位に躍り出たのは6月下旬だった。

ピッチャーは松岡弘、安田猛、鈴木康二朗、井原慎一朗の4投手が2ケタ以上の勝ち星を挙げた。打者はD・ヒルトン、若松勉、C・マニエル、大杉勝男が打率3割を超えた。

勝ち頭の16勝(11敗2S)でチームを引っ張った松岡は「当時はこのヤローと思ったが、自分が指導するほうに回って広岡さんのおかげで優勝できたということが分かった」という。

「遠征もちゃんと全員が制服でそろえ、集合時間も絶対にバラバラにさせない。月曜日の移動先でも練習で休みがなかった。甘い炭酸飲料は歯に良くないから豆乳を飲むようにいわれました」

広岡が最優先課題にしたのは投手力強化だ。巨人を引退した後、米大リーグを勉強して帰国し、サンケイスポーツ社に自ら売り込んで野球評論家になった。その充電期間が監督業に生かされた。

巨人では名選手だったが、ユニホームを脱げば1人の人間。「ラジオだけでは食えないので、仕事をください」。同紙運動部長の北川貞二郎に直訴した。評論家として雇われたが何度も原稿を書き直される。

「北川さんには『あれもこれも書こうとすると原稿が散漫になって読者もわからない。ポイントを1つに絞って書きなさい』と重点を絞るように教えられました」

チーム再建への“一点絞り”が、投手陣の戦力アップだった。実は78年の松岡は1軍に同行したまま約1カ月間、登板機会を召し上げられている。当時について本人は「干されたと思った」という。

「おれを押さえつければ他の選手も目の色を変えると思ったのかもしれませんね。投手コーチの堀内(庄)さんから『監督がいうこと聞かないと使わないといってる』といわれ、投げさせてもらえないから言うことを聞いた。でも広岡さんはずっと毎日おれの練習につきっきりで見ていた」

ブルペン、遠征先の宿舎ホテルの廊下、監督室で連日マンツーマン指導が続いた。広岡自身も学んできた「心身統一合氣道」の教えもたたき込まれた。6月5日阪神戦(神宮)から遠ざかった登板が次に回ってきたのは、7月2日の中日戦(ナゴヤ)だった。

ヤクルトは家族主義的なチーム体質にあった。広岡はお互いの失敗をカバーし、傷をなめ合うようなムードを払拭(ふっしょく)したかったのだろう。主戦の松岡という“急所”を抑えた。

「広岡さんは勝つためには容赦はしない。管理野球じゃないね。当たり前のことだと後で思った。それをおれたちが経験していなかっただけだった。最初は聞いてるふりみたいなところがあって、変なまとまり方でした。でも『真のプロとは?』を学ばせてもらった。厳しかったからチームは後半になってさらに引き締められました」

巨人と優勝争いになったが、その後、広島も絡んでの三つどもえ。広岡にケツをたたかれた松岡が勝ちだした…。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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