日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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ヤクルトは日本シリーズでも、パ・リーグを4年連続で制した阪急ブレーブス(現オリックス)を下した。ただし、本拠地の神宮球場は東京6大学の日程と重なり、使用できなかった。球団社長の佐藤邦雄が球場側と掛け合ったが変更されなかった。時のコミッショナー金子鋭(かねこ・とし)も「日本シリーズはデーゲーム開催」との考えを崩さず、後楽園での決戦になった。

西本幸雄、上田利治が監督として築き上げた阪急は、圧倒的な強さを誇った。ヤクルトの松岡弘は「ミーティング漬け。情報戦だった」、杉浦享は「やる前に『1つは勝ちたいですね』と話していた」と振り返った。

第5戦を終え、関西から空路帰京したチーム便が乱気流に巻き込まれた。杉浦は「上にいったり下がったりで、落ちるんじゃないかと思った」と振り返る。

「井原(慎一朗)さんがコーヒーを持ったまま天井にぶつかった。後ろのおばさんたちが正座して『ナムミョウホウレンゲキョウ』『ナムアミダブツ』とやり出した。無事羽田に降りたときは、みんなで万歳しましたよ。不思議なことが続いて何かが起きるんじゃないかと思いました」

3勝3敗で迎えた第7戦は、ヤクルト1点リードで迎えた6回、大杉勝男の左越え本塁打を巡り、阪急監督の上田が1時間19分の猛抗議に出た。判定は覆らず、試合は松岡が完封して球団初の日本一。広岡は今も“管理野球の結実”と評されることをよしとしない。

「当たり前のことをさせただけです。例えば食事にしても、口に入れたご飯はちゃんと32本の歯でかんで食べることが大切なのです。なぜ? そこに唾液を混ぜれば、脳を命令する五臓六腑(ろっぷ)が喜んで働くんですよ」

広島でコーチだった広岡に遊撃手に仕立てられた苑田聡彦(現スカウト統括部長)は「内野手でも古葉(竹識)さんは選手に合わせたが、広岡さんは頑として基本を教えるタイプ。できないとノックバットを放り投げて帰った」という。

ヤクルト正遊撃手の水谷新太郎は素手で捕球させられた。「飛び込んだり、バックハンドはやらせない。『足を使って。難しく捕るな。体で覚えろ』と言われた」。それを理論づけられた。

捕手だった大矢明彦(元横浜監督)は「内野手は捕球感がないから手袋はしちゃダメといわれてましたね。若手は手の甲が腫れて紫色になった」という。

77年の大矢は右手人さし指部分を複雑骨折した直後、広岡に「ボールを握ってみろ」と言われて「無理です」と答えた。「100%完治していなくても『頑張ってみないか』と言われた。プロではこういうのを乗り越えないとやっていけないんだなと感じました」。

広岡は投手交代を自分で決め、攻撃のサインも自分で出した。「今日やったら明日もやれ。できなかったら、できるまでやれ」。いかにして勝つかをたたき込み、チームを引き締め続けた。「責任は監督にある」。弱小チームの立て直しは、最後まで信念を貫いた成果だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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