黄色いリストバンドだけでなく、グリーンウェルがタテジマカラーであつらえた用具がある。ゲーム用のスパイクだ。靴底のウレタン樹脂を通常より厚くし、29センチの足をがっしり包む1足8万円の特注品が、5月中旬には届くはずだった。

3戦連続適時打の甲子園デビューを終え、期待はうなぎ上りだった。だがピークは驚くほど短かった。ナゴヤドームでの中日2連戦は7打数無安打。相手がかわすつもりのボール球に手を出し、凡打を重ねた。

「いつもいつも打てるものではない。それより次は巨人戦。レッドソックスでも、ヤンキースとの対戦は盛り上がったものさ」

敵地での伝統の一戦に、野球人の血をたぎらせた。休養日だった5月9日も都内でジムを探し3時間も汗を流していた。

迎えた10日。打球は東京ドーム内を伸びることなく、人工芝をはうばかりだった。投ゴロ、遊ゴロ、二ゴロ併殺、遊ゴロ併殺…。ヘッドコーチの一枝修平が「思い通りにならないから、しゃくにさわって何でも振ってしまっている」という悪循環にはまっていた。

その4打席目、神はお告げを“ささやいた”。右足甲への自打球に顔をしかめる。続いてゴロを打ち返した時も踏ん張りがきかず、つまずいたように走りだす。敗戦後は「体は問題ない。ただスイングが気に入らないから修正する」と強がった。もしも、特注の8万円スパイクを履いていれば…。皮肉にも電撃引退につながる骨折は右足甲へのダメージが原因だった。

強行出場した11日巨人戦が日本で最後の実戦になった。「こどもの日」の甲子園以来、17打席ぶりに放った安打も、遊撃へのゴロの内野安打だった。表には出さなかったが、右足の痛みは限界を超えていた。

都内のホテルからフロリダ州アルバの自宅に国際電話をかけた。夫人のトレーシーに「折れていたら引退する」と伝えた。覚悟を決め、12日には横浜戦を行う岡山に向かう新幹線のチーム便にはだしで乗った。右足を氷で冷やしながら、岡山に着くと市内の病院に駆け込んだ。11日に都内病院で異常が見つからなかった右足で、第2中足骨が折れているのが分かった。

チーフトレーナーの猿木忠男はエックス線検査の写真を収めた封筒を手に、岡山市内の宿舎ホテルで各部屋を行き来した。骨折なら、長期離脱は免れない。チームがあわてふためくそのころ、グリーンウェルは引退の決断を胸に、松葉づえで大阪に戻っていった。【町田達彦】

(敬称略、つづく)