プロ20年目の西武栗山巧外野手(38)が通算2000安打を達成した。6歳から始まった栗山の野球人生。いつもそばには家族がいた。父忠人さん(63)と、球場で偉業達成を見届けた母寿江さん(60)は、幼少期から息子が節目で発した数々の“言霊(ことだま)”を、深咲夫人と長男・一(はじめ)君は手紙で素顔を明かした。長女と次女の似顔絵とともに、栗山家の「声」から男・栗山巧の38年と1日をひもといた。

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小学生の栗山少年は、オリックスファンだった。2軍練習場は家から自転車圏内。当時のチームにはイチロー氏(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)がいた。実家には同氏が途中で変更した2種類のサインを持つ。ある日、寿江さんに言った。「年間パスポートっていうのがあるんやけどな、それの方が得やねん」。言葉巧みに説得。後から聞いた話によると、試合中に帰る客に「おっちゃん、半券ください」と話しかけ、途中から料金の高い席で観戦。母の知らないところでたくましく育っていく。

元気いっぱい遊んでも夕飯前にはきっかり帰宅した。寿江さんは不思議に思っていた。「どっかで時計みて帰ってきてんのかな?」。実際は近所にある高い塔を見ていた。「影の角度を見て大体こんくらいって分かんねん」と栗山。日時計を読むわが子に「あんたは原始人か」と突っ込んだ。

進路はいつも野球が第1優先だった。小学1年で少年団に入った。同時に、当時はJリーグ草創期で人気絶頂のサッカー少年でもあった。小学3年でどちらか選ばないといけなかった。サッカーでは当時キャプテン。選抜にも選ばれていた。「きっとサッカー選ぶんかな」と思っていた母の予想に反し、あっさりと野球を選んだ。

小学校で「僕はプロ野球選手になんねん」と宣言。中学では「これ(野球)でメシ食っていくねん」と具体性を増し、高校に入る前には両親に「俺に投資してくれ」。目標はブレずに、その言い回しは変わっていった。高校では甲子園に2度出場し、2年夏に4強に進出。頭を五厘に丸め「兵庫に栗山あり」を知らしめていたが、母は冷静で「きっとこれがピークなんやろうな」。でも栗山は「俺にとってこれは通過点や」と言い張った。高校3年の進路相談。担任教諭が「プロ志望届出してます。彼ならいけると思います」と5分で終わった。ドラフト会議で指名されるまで、信じられなかった。

プロ入り3年目の04年9月、電話がかかってきた。「消化試合やけど1軍に上げてもらったわ」。母には涙声に聞こえた。翌日の大阪ドーム(現京セラドーム大阪)での近鉄戦でプロ初安打。ここから2000安打が始まった。数年後、1軍で足掛かりをつくり始めた頃、実家に帰った栗山が唐突に言った。「ここで過ごす正月は最後かもね~」。「何言うてんのかな?」と不思議に思っていると、近所に新築一軒家を購入し、両親にプレゼント。「俺に投資してくれ」と言った言葉はウソじゃなかった。

83年9月3日、栗山家の2歳年上の姉に次ぐ長男として生まれ、母はこう願った。「とにかく『ええ男』になってほしかったんですよ」。野球に身をささげ、球界の歴史に名を刻んだ。そのルーツをたどると、母の願い通り、栗山巧は球界一の“ええ男”だった。【栗田成芳】