日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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オリックスの前身にあたる阪急が、球団初のパ・リーグ制覇を遂げる前年の1966年(昭41)10月14日、5位に終わった西本は、前代未聞の“総選挙”を断行した。秋季キャンプ初日の西宮球場2階の会議室に選手全員を集合させた。

「オレについてこれる者は〇、ついてこれん者は×を書け…」

万年Bクラスに低迷した阪急は、西本が監督に就いてからも6位、2位、4位、5位と優勝と無縁だった。勝っても、負けてもネオン街に繰り出す、ぬるま湯体質が気にくわなかったのか。自身の野球を貫くには選手の本心をはかりたかった。

監督の去就にまつわる話題もちらほらと耳に入ってくる。全員に紙切れを配ったのは、マネジャーの矢形勝洋。忖度(そんたく)なしの無記名で行われたのがプロ野球史に例を見ない「信任投票」事件だった。

鳥取・境高からプロ入り、通算350勝の米田哲也は、11年目のシーズンを終えた当時を振り返って「おれはペケにした」と打ち明けた。梶本隆夫(故人)は「×」、米田に次ぐエース格の足立光宏は「白紙で出した」。ただ取材先のほとんどは「突然で意味が分からなかった」という。

その年の退団者を除く約50人が参加した投開票の結果は、「×印」が7票、白票4票が定説。西本は少数派の不信任にもショックだったようで、球団代表の岡野祐に辞任を申し入れた。

だがオーナーの小林米三は「何日かかっても、西本を説得するように」と球団トップに命じるのだった。球団相談役の木元元晴を介した話し合いで、西本は残った。オーナーからの強い信頼を受けた監督は、厳しさを植え付けながらチームを変革していく。

翌67年10月1日、阪急は西京極球場で東映とダブルヘッダーを戦ったが、大阪球場で2位西鉄が敗れ、超満員のスタンドに五色のテープが乱れ飛んだ。球団創立32年目で初のリーグ制覇。秋の夕暮れに、西本の体が宙を舞った。

3年後に阪急入り、エースとして通算284勝を記録した山田久志(現阪急・オリックスOB会長)は不信任投票について「わたしの入団前の出来事だが、西本さんに聞いたことはある」と言って続けた。

「要するに『チームを立て直すには、今のレギュラーとしてやってる選手の考え方そのものを変えないといけない、そのためには自分が思ってることをやらないかん。でもやり始めたら反感を買った。それならオレが辞めるか、はっきりさせようじゃないかという決断だった』ということだろう」

西本は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝に輝いた。だが1度も日本一にたどり着かなかった。阪急で5回対戦した巨人との日本シリーズでは、巨人の監督川上哲治の後塵(こうじん)を拝した。

西本を“おやじ”と慕った山田は「お二方の共通点は強烈な負けず嫌いなところ。ゴルフにもご一緒させてもらったが、川上さんの負けず嫌いには恐れ入ったし、西本さんの上をいった。川上さんは組織を束ねて勝つ、西本さんは育て上げる監督だったのではないだろうか」と語った。

監督にとって「育てながら勝つ」は永遠のテーマだ。それを極めたのが、名将西本だった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆西本幸雄(にしもと・ゆきお)1920年(大9)4月25日生まれ、和歌山県出身。和歌山中(現・桐蔭)-立大から社会人を経て、50年毎日(現ロッテ)入団し55年引退。491試合、276安打、6本塁打、99打点、打率2割4分4厘。左投げ左打ち。60年に大毎監督に就任し優勝も同年退団。63~73年阪急監督で5度、74~81年近鉄監督で2度リーグ優勝も日本一はなし。79年正力賞受賞。88年殿堂入り。11年11月25日、91歳で死去。

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