日刊スポーツの大型連載「監督」の第5弾は、大毎、阪急、近鉄を率いて8度のリーグ優勝を果たした西本幸雄氏(享年91)。チーム創設32年目の初優勝をもたらした阪急では、妥協知らずの厳しい指導力で選手を育て、鍛え上げながら黄金時代を築いた。

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1971年(昭46)の日本シリーズ第3戦の最終回、巨人王貞治に逆転サヨナラ3ラン本塁打で打ちのめされた山田久志は立ち上がれなかった。

「壁というより、勝負の厳しさだった。投げれば勝った怖いもの知らずの年。でも、山田はあの1球で変わっていった。やはり西本さんの投手はコントロールという教えにたどり着く」

この年は22勝6敗(リーグ2位)、最優秀防御率2・37、最高勝率7割8分6厘のエースだったが、短期決戦で流れをたぐり寄せることができずに敗れた。

「球が速ければ抑えられる」という山田に、西本は「お前のような考え方ではプロでは通用せんぞ」とたしなめた。その真意を痛感した大きすぎる1敗だ。

12歳で父久三郎を亡くした山田は、プロ入り後初めて母ヨシと兄弟を招待した。マウンドでせがれが膝から崩れ落ちた姿を目の当たりにしたおふくろが再び球場を訪れることはなかったという。

またしても父親代わりの西本を日本一監督にすることもできなかった。王に打たれた後、山田はベンチからマウンドに迎えにきた西本に促されてマウンドを降りるのだった。

「ユニホームを脱いだ後、西本さんに『あのときなんて声を掛けてくれたんですか?』とうかがったことがある。『ヤマ、帰ろ』って言ったんだって…」

サヨナラ負けを喫した敗戦投手を監督がマウンドまで迎えにいくなどあり得ない光景だ。山田は02年に中日監督に就任した際、自分も西本をまねたいと思ったが出来なかった。

優勝する前年の70年は“上がり”なし、シーズン通してベンチ入りを強いられた。先発、中継ぎ、抑え、ワンポイント、敗戦処理で起用され、その年初めて10勝を上げてからスターダムにのし上がった。

高いポテンシャルをもちながら、鍛えても芽を出さない選手もいるから忍耐力がいる。監督には勝負に対する厳しさと執念、冷徹さと愛情がそなわっているべきなのだろう。

西本は大毎、阪急、近鉄で指揮を執って8度のリーグ優勝に導いたが、1度も日本一に立てなかった。阪急では巨人の壁に5度とも阻まれた。

山田は「負けたほうは相手が強かったというしかない。1つ言えるのは巨人にはONという存在があって、阪急にはなかった。でも個々の力は負けていない」という。

「それと川上哲治と西本幸雄のもってる運だろうね。西本さんだって8回も優勝するんだからもっていた。それ以上に川上さんに引きつける何かがあったんだろう。ゴルフにしたって西本さんは負けは負けで認めたが、川上さんはもうハーフといってやめない。でも西本さんは人を作るのはNO・1だと思う。川上さんは戦力を上手に使い切って、組織として戦って、うまくチームを勝ちにもっていったのではないだろうか」

山田は「リーダーとは?」という問いに「“心”だろう」と答えた。「心情と書いて情けもあるし、心配といって心配りもある。選手の心を動かし、自身の心を貫いた。西本さんは育てながら勝つ人だった」。悲運の名将といわれる西本だが、あまたの名選手を育て上げた功績は輝き続ける。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

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