智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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プロ野球史上、最も劇的だった日本シリーズは、1958年(昭33)の西鉄-巨人戦といわれる。“巌流島の決闘”とも称される三原西鉄と水原巨人の戦いは、56年、57年とも西鉄が勝利しており、3年連続で因縁の対決が巡ってきた。

三原が手塩にかけたチームはタレントそろいの“野武士軍団”だった。配置転換の妙で能力を引き出したのは、派手さはないが、いぶし銀の働きをみせた河野昭修だ。三原はこの男を下位で起用する。

三塁手でプロ入りしたが中西太にはかなわない。遊撃に回すも豊田泰光が入った。二塁は仰木彬がいる。それでも河野の力量を買っていたから一塁手で長所を生かした。いわゆる「ユーティリティー」の役割を作ったわけだ。

「河野は腰高、非力だったが、カンが抜群に良かった。わたしがあきらめることはなかった。必ずモノになると思っていたからだ。(選手を使う監督として)我慢が必要だった」

この年のパ・リーグは鶴岡一人の南海ホークスが快調だった。立大出の杉浦忠が27勝12敗で新人王を獲得。西鉄は南海に最大11ゲーム差をつけられたが、9月に13連勝するなど大逆転で優勝をつかんだ。

水原巨人も三たび敗れるわけにはいかない。この年、スーパースターの長嶋茂雄が立大から巨人に入り、新人で本塁打、打点の2冠を取って実力を発揮する。

川上、金田、広岡、中西、長嶋、杉浦…。プロ野球が国民的スポーツになっていく潮目にあって、輝いた選手の名前を挙げるだけで高揚するというものだ。

西鉄は初戦、第2戦に連敗した。舞台が平和台球場に移った第3戦も、巨人エースの藤田元司に0-1の完封負け。王手をかけられた西鉄は、ホームで第4戦を迎えようとしていた。

絶体絶命の崖っぷちに立たされた前夜、福岡市内の自宅を訪れた友人、新聞記者らに勧められてマージャン卓ができた。チームは負け続けたが、三原がマージャンで勝ちまくったのは不思議だった。

にぎやかな宴は日付が変わっても続いたが、そのうち外から屋根を打つ音が聞こえてきた。博多に雨が降り出した。朝方もやまず、平和台球場の土のグラウンドに水が浮き、第4戦は雨天中止になった。

翌日に順延が決まったタイミングで雨が上がったから、水原から直接「できるじゃないか」と抗議を受けた。この“1本の電話”は、両監督の心理状態が微妙に揺れ動いたことを表している。

「不安な気持ちが消え、落ち着きどころか、集中力が出てきた。勝負は心理戦である。心理的に優位に立ち、勝機をつかむ」

ツキと運。それが三原には残されていた。仕切り直しになった第4戦。博多の空は晴れ渡った。さぁ、神様、仏様、稲尾和久様の登場だ。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

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