智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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1958年(昭33)の日本シリーズが、“雨”で流れが変わるとは、だれが想像しただろう。第4戦が雨天中止になった直後、巨人監督の水原茂から順延を不服とする電話を受けた西鉄監督の三原は明らかにいらだつ敵将の心理を感じ取った。

初戦から3連勝で王手をかけた巨人は、その勢いをもって一気に決めたかった。しかし、天の恵みとでもいうべきか、この水入りで西鉄が静かに息を吹き返す。第4戦の先発は稲尾和久だった。

稲尾との出会いは、3年前の1955年(昭30)夏。西鉄スカウトの竹井が連れてきたのが、別府緑ケ丘高の稲尾だった。そのときの練習から印象に残ることはなかったが、そのまま入団が決まった。

同期には小倉高のサウスポー畑隆幸がいた。甲子園出場で名が知れた畑の契約金は700万円、稲尾30万円。しかし、56年の新人王に輝いたのは、畑ではなく、稲尾だった。

父・久作と別府湾で櫓(ろ)をこぎ、漁師の手伝いで鍛えられた下半身は抜群の安定感だった。オープン戦で主力が寒さで登板を回避すると、控えの稲尾を送り出した。制球力の良さから下働きに打撃投手にも使った。そのパフォーマンスをみた三原に“電流”が走る。無名の男は、その鋭い眼力によって発掘され、名投手にはばたくのだった。

三原魔術は稲尾の起用法にも表れる。57年9月3日の毎日戦(後楽園)で1点リードの5回、稲尾は無死二塁のピンチに、榎本喜八、山内一弘、葛城隆雄のクリーンアップを迎えた。

榎本を一ゴロ、山内を三振。稲尾に相性が良かった葛城が打席に入ろうとすると、三原は若生忠男をリリーフで投入し、稲尾を一時一塁に退避させる用兵をみせた。

ずっと後の2000年阪神監督の野村克也が、同じようなスペシャル継投の作戦で話題になった。その43年も前に、三原がその戦術でチームに勝ちをもたらしていたから、野村も“三原の考え”に学んだのかもしれない。

三原が毎日戦にワンポイントで起用した若生が葛城を二飛に打ちとると、一塁から再び稲尾をマウンドに戻し、自身14連勝の26勝目を挙げた。三原は「継投はポイントを見誤ると収拾がつかない」という。

「投手交代の時期は遅すぎるよりは、早いほうがよい。破局がくる前に、いつ投手を引っ込めるかを知ること。わたしは勝負運に乗った選手には、それを重用する用兵をやった」

57年シーズンの稲尾は20連勝(35勝6敗)で、13年に24連勝する楽天・田中将大に抜かれるまで、プロ野球記録を保持した。翌58年も33勝したから脂が乗り切っていた。

58年の巨人との日本シリーズで、稲尾は第3戦にも藤田元司と9回を投げ合って、0-1で敗れていた。順延で生まれた「中1日」は有り難かった。中西太、豊田泰光が打って、稲尾が完投勝ち。一矢報いた西鉄に薄日が差した。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

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