元ロッテの高浜卓也さん(32)は昨季限りでユニホームを脱いだ。「おつかれさまでした」。ねぎらいの花が自宅に届いた。

南の香りがした。送り主は石垣島に暮らす夫婦。「キャンプで本当にお世話になって、気にかけていただいて。石垣島へ毎年行くのも難しくなるのかな…」。寂しそうな顔をした。ハマ、もしくはハマちゃん。強烈な1軍成績を挙げたことはなくとも、愛される選手だった。


たまにファンから言われた。「すごく優しく接してくれる」「サインも嫌な顔せず書いてくれる」。意識して演じたことなどない。「僕らみたいな職業を応援してくれる人がいることに感謝して。記者の人にもそうです。僕らの人間性って、記事にして分かってもらえるわけだし」。


炎天下で取材した日、そっとミネラルウオーターを差しだしてくれた。「今日、ほんと暑いですよね。日陰にいてください」。白い歯がキラッとしていた。


暖かさの原点は。「中学、高校と厳しくしてもらったのが生きてるんじゃないかな」。

07年9月、横浜高校グラウンドに設置されている松坂大輔氏の記念碑の横に立つ横浜・高浜卓也
07年9月、横浜高校グラウンドに設置されている松坂大輔氏の記念碑の横に立つ横浜・高浜卓也

全ての始まりは、松坂大輔の存在だった。1998年。ソフトボールから野球に転向した、小学4年の夏だった。強い日差しが水田で反射する、佐賀の街。朝から日没まで練習に夢中で、甲子園での伝説はリアルタイムで見ていない。でも。「僕、すごい高校野球マニアだったんですよ。『熱闘甲子園』とかも録画して、テープがすり切れるくらい何度も見て」。


特段、深い理由はない。「ただただかっこいい。あんな速い球投げて、騒がれて。かっこいいから、俺も入りたいって」。やっぱり、独特の投球フォームもまねた。日本中の野球少年たちと同じように。


ソフトボールで作った地肩に、生まれ持つ身体能力がシンクロしていく。仲間や指導者にも恵まれた。軟式野球でプレーした中学時代は、最速138キロ右腕として全国大会に出場。横浜スタジアムでの躍動感あるプレーは、スタンドで視察する渡辺元智監督(当時)をワクワクさせた。地元の公立校に入学するつもりでいた。やがて約70校から誘いがあったことが判明。迷わず横浜を選んだ。

05年6月、1年生の時の高浜卓也
05年6月、1年生の時の高浜卓也

九州から横浜高校野球部の門をたたく、初めての中学生だった。越境入学に抵抗はなかった。「今みたいに年齢を重ねてたら、そういうところに行ったら大変って分かるじゃないですか。でも中学生だと、何とかなるでしょみたいな感覚だったんですよ。何も怖いものなしで行って」。


入学後にノックで右翼に入り、いきなり三塁へ低空ノーバウンド送球。手厳しい小倉清一郎部長(当時)をもうならせた。すぐに内野でも試され、背番号5を手にした。


スター街道を歩み始めた。一方で人知れず悩みも芽生えた。部員の多くが首都圏出身、または有名チームの出身だった。「関西の人もいましたけど、関西の言葉ってみんな分かるじゃないですか。九州は違うんです。しかも自分は無名の軟式出身。言葉のことを指摘されたことがあって、それがずっと尾を引いて」。

05年7月、神奈川県大会の平塚工科戦の5回1死で右翼線三塁打を放つ高浜
05年7月、神奈川県大会の平塚工科戦の5回1死で右翼線三塁打を放つ高浜

失意の15歳に、追い打ちをかけるような出来事があった。ある日、制服姿で外出した。バスの運転手に、行き先に関することを尋ねた。カバンの校名を見たのだろうか。当時の彼にとっては、冷たすぎる言葉が戻ってきた。「横浜高校の生徒なのに、そんなことも分からないの? 高校生にもなって」。


いつしか、コンビニも気軽に行けなくなった。「温めますか?」と聞かれると、返事のイントネーションが正しいかをまず気にしてしまう。あこがれの場所だったのに、どんどん苦しくなっていく。なんか違う。無理かな。寮を飛び出した――。


【向かったのは古郷佐賀。待っていたのは…】

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横浜高校の校歌は港町の夜明けを描く。


朝日直射す、富岡の阜。紺碧(こんぺき)の波、額に迫る―。


高校野球ファンによく知られた情景を迎える前に、動いた。その朝のことを今でも鮮明に覚えている。


「朝4時ぐらいですね、荷物持って能見台駅まで歩いて、京急の始発に乗って」


羽田空港に着いた。そのまま飛行機に乗った。行き先は故郷・佐賀。「修学旅行の積立金か何かで、たまたま口座にお金が入っていたんですよ」。高1の5月、寮を脱走した。


言葉の違い。誰かと話をすることが苦しかった。直接の否定はなくとも、自身への否定のように感じてしまった。人と話すことに苦しさを感じた。「もう、ちょっと限界でしたね」。

第87回全国高校野球選手権大会神奈川県大会 横浜対横浜旭陵 勝利した横浜・渡辺元智監督(中央)、小倉清一郎部長(左)(2005.07.13)
第87回全国高校野球選手権大会神奈川県大会 横浜対横浜旭陵 勝利した横浜・渡辺元智監督(中央)、小倉清一郎部長(左)(2005.07.13)

耐えられなくなり、前日に決意。2人部屋の相棒には、夜のうちに「帰るわ」と予告した。空の上の記憶はない。「寝てたんじゃないですかね、多分」。その後の記憶は鮮明だ。9時ごろ、佐賀空港に着陸。到着口へ向かうと「うわっ…」。母がいた。寮生活。誰かがいなければすぐに分かる。


「何してんの?」


「もう無理や」


「どうすんの?これから」


帰宅し、部屋に飛び込む。苦しみがどっと抜けた。「こんにちは」。午後になって声が聞こえた。部屋にいても、それが誰だかすぐに分かる。


「渡辺監督がいらしてくださって」

横浜高校渡辺元智監督(2005.12.14)
横浜高校渡辺元智監督(2005.12.14)

両親が対応し、自分は部屋にいた。多感な15歳。いろいろな感情が駆けめぐって「あの日のことは、覚えていないことも多くて」。けれど数日後、再び横浜の長浜グラウンドに立っていた。「普通に入って。何か言われるかなと思ったんですけど、みんな『何があった? 大丈夫か?』と心配してくれました」。


いつも優しげな表情をしている。それゆえか、周囲には気付かれていなかった苦しみ。同級生に少しだけ、吐露した。


「そこからですよね。逆に(言葉を)いじるじゃないですけど。それまでは変な顔をされるだけだったのに、横浜に帰ってからは『イントネーション違うじゃん』とか、みんなが返してくれるようになって。こっちもそれに返して」


今となっては笑って振り返られるほど、濃密な野球人生だった。甲子園優勝、ドラフト1位、FAの人的補償、何度も変わった背番号、育成契約…いろいろあった。弟も同じ道を追いかけ、プロ野球選手になった。でももしあの日、渡辺監督が佐賀へ飛んできてくれなかったら。


21年11月、現役引退した高浜氏
21年11月、現役引退した高浜氏

「どこか近所の高校に入り直して、1年棒に振って、野球やってたかもしれないですけど。分かんないですね。でも渡辺監督は来てくださった。そんなことしてくれる人、なかなかいないので。この人に付いていこうと思ったのは、その時ですかね。それまでは憧れでしかなかった」


喜びも苦しみも、全ては15歳の自身の決断から始まった。もう一度、野球人生を歩めるならば。


「もう1回するでしょうね、同じ決断を。いないんじゃないですか、こんなたくさん経験できた人って。恩師や仲間たち。本当に人に恵まれました。野球がなかったら多分、つまんない人間だと思うんで。野球があったから」


後輩たちが安心して野球に打ち込めるよう、また自分で道を開きたい―。引退を決断し、渡辺監督に伝えた。「これからの人生をどう生きるかのほうが、よっぽど大事なんだから」。あの日、ピリオドを許してくれなかった師は、次へのスタートラインに優しい声を響かせてくれた。【金子真仁】

07年の高校ドラフト会議で阪神から1巡目指名され横浜高の仲間に胴上げされる高浜卓也
07年の高校ドラフト会議で阪神から1巡目指名され横浜高の仲間に胴上げされる高浜卓也