日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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阪神からの監督要請を断った西本幸雄は、球団事務所で記者団に囲まれ、私見として次期監督に関して「阪神で育てられ、阪神に愛着が強固の人、阪神に情熱をもってる人」といってフロントのあり方についても言及した。

「チームの再建は次期監督の選択より、フロントの姿勢…。チームの土台がしっかりしなければ、長期的には勝てない。そうでないとこの球団を強くするのに困難な問題に打ち勝ってはいけない」

阪神の要請は同じ組織であるはずの阪神電鉄本社、阪神球団の双方から受けた。これは推測だが、西本が阪神に不信感を抱いてもおかしくなかった。それはフロントに対するコメントにもにじみ出た。

名将西本のチーム再建論を受ける形で、“ザトペック投法”の村山実と“牛若丸”の吉田義男の2人の名前が急浮上した。マスコミでは、村山が就任する公算が大きいとの見方が大勢だった。

しかし、この時点ですでに本社社長の久万がターゲットを定めたのは、村山でなく、吉田のほうだった。西梅田開発室長の三好に速攻アタックを明確に指示できたのは、西本から推薦を受けたからだろう。

西本が球団に断りを入れた10月20日、三好はある人物を介し、吉田と間接的にコンタクトを取った。すぐにでも会いたい旨を伝えて、翌21日に面会する約束を取りつけた。

その日の吉田は、関西テレビの仕事で広島-阪急の日本シリーズ第6戦が行われた広島市民球場を訪れていた。デーゲームは8-3で阪急が快勝し、日本一決戦は第7戦にもつれ込んだ。

密会の舞台は岡山市内の岡山ロイヤルホテル。わざわざ本拠の甲子園がある西宮市から西に離れた場所を選んだのは、うるさいメディアにかぎつけられるわけにはいかなかったからだ。

もはや失敗は許されなかった。三好は夫人の博子を伴い、さらに知人夫妻が合流して、4人での和やかな家族旅行を装った。そして新大阪駅から新幹線で岡山に乗り込んだ。

一方の吉田は、日本一決戦で熱狂する広島を後にし、岡山駅でひっそりと途中下車。ご一行の三好はチェックインすると、夫人たちと分かれて別室で吉田を待ち受けた。

吉田にはあらかじめ用件は伝えられていたが、阪神の使者になった三好が正式にオファーした。吉田は「岡山で降りたのは、だれにもばれなかった」とテーブルに着いた。

三好は「第1期監督(75~77年)の際にいやな思いをしたようで、最初はしぶっていた」と言い、吉田も「わたしは監督(要請)を待っていませんし、村山がやるものと思ってました」と即答を避けた。

一連の水面下の動きとは裏腹に、マスコミ報道は「吉田か、村山か」で交錯し続けた。しかし、この密会によって一気に流れは傾く。吉田がある条件を提示したのだった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

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