日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1984年(昭59)10月、ついに阪神タイガース第23代監督・吉田義男が誕生した。阪神は野球に対する情熱と厳しさ、選手と泥にまみれるにふさわしい人材と判断。理想像の西本幸雄に近いと評され、西本本人からの推薦にも後押しされた。

「最初からどうせ無理やろという論調でしたわ。まったく歓迎ムードは感じなかったし、期待もされなかった。終始一貫、マスコミと対決していたように思います」

監督の第2期を迎えた当時の心境を問うた際、吉田の口を突いた答えだ。すでに40年近くたっているにもかかわらず、今でも脳裏をよぎるのはメディアとの間に生じた激しい摩擦のようだ。

阪神は62年、64年にリーグ優勝を果たした黄金時代から遠ざかっていた。吉田は“牛若丸”の異名をとった名手で、生え抜きの大物OBの就任に変わりはなかった。

現役時代は身長165センチの小兵で、打球をグラブに吸い込んだかと思った瞬間に矢のような送球をした。コンマ1秒でも速く打球に入るのは「ダッシュ捕球」といわれ、捕ってからスローイングまでの一連の動作は神業だった。

グラブは左手も同然で、食事の際はそばに置き、時間があればはめた。しょっちゅうボールを持ち替える動作を繰り返し、風呂につかったときの水圧を利用して、右手首を湯船の中で振って鍛えた。

遠征先の旅館では、同部屋のチームメートはあきれてマネジャーに部屋替えを申し出た。今でも守備にうるさいのは、素早い身のこなしから“飛燕(ひえん)”と形容されたプライドと意地、そして古巣阪神への歯がゆさか。

巨人の名遊撃手だった広岡達朗に華麗なフィールディングを「名人芸」と言わしめた努力の人。そのお互いが85年に阪神、西武の監督として日本シリーズであいまみえるのも運命だった。

84年10月23日。「ホテル阪神」で開かれた監督就任の記者会見は「突然のことで戸惑っています」ともらして始まった。

「(わたしは)リリーフ投手のつもりで、まずは“土台作り”、選手を育てることに取り組みたい」

球団社長が小津正次郎で、監督が安藤統男だった83、84年の春季キャンプは主力がハワイ州マウイ島(マウイ・メモリアル・スタジアム)、残留組は高知・安芸市に分かれて行われていた。

吉田は「会社の考えは分からないが、ハワイという地は物見遊山に行くところだと思う。うちのテーマは鍛えることだから、もっと他にあるでしょう」とマウイキャンプを返上し、安芸に全員を集合させた。

「マウイキャンプを苦労して実現させた小津さんからえらい怒られた。でも自分の思うようなチーム作りをしたいと思ったし、またそうしたつもりです。わたしの仕事は“土台作り”だったから、トレードより若手にチャンスを与えたいと思ったし、そこに賭けたかった」

今でも「昭和」に輝いた栄光を語るときの吉田は熱っぽい。新生吉田丸が船出し、あの伝説のシーズンが火ぶたを切った。マスコミとの暗闘とともに…。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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